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婚活心理学

愛と死の心理学〜あなたが人を愛さない理由 婚活心理学Vol.10

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はじめに

愛を求めない人が増えているのはなぜか?愛せないのか。愛さないのか。微妙です。愛はいつから不要なものに成り果てたのか?人生に必要不可欠なものの座から滑り落ちたのか?愛を求めなくても生きていける時代とは、どういう時代なのでしょう?一体、若い人たちの間で、何が起きているのでしょうか?


一方で、興味深いことに、「あなたは死ぬのが怖いですか?」そう尋ねると、多くの若者はこう答えます。

「自分の死は怖くない。でも、母が死ぬのは辛い。」この言葉を、私は何度も耳にしてきました。まるで合言葉のように。クライアントたちは同じように答えるのです。ではなぜ、こうした答えが返ってくるのでしょうか?


それは、"自分の死" よりも "愛する人の死" の方が現実味を帯びているからです。死は、確実にすべての人間にとって避けられない現実です。しかし、自分自身の死はどこか遠く、不確かな未来の出来事のように感じられる。一方で、母や父、あるいは大切な人の死は、容赦なく「現実の問題」として突きつけられます。

誰かの死を恐れるということは、その人との深いつながりを自覚しているということ。そして、つながりが断ち切られる恐怖を感じるからこそ、人は愛に踏み込むことをためらうのです。


実際、2022年の厚生労働省の調査によれば、20代から30代の独身男女の約40%が「結婚に不安や抵抗感を抱えている」と回答しています。この「愛に臆病な時代」の背景には、結婚に対する社会的プレッシャーだけではなく、もっと深い個人を超えた問題が横たわっているのではないでしょうか?それが 「愛と死の関係」という名の深淵です。



【内容】

第1章:愛は虚無への答えになるのか?

第2章:恋以上、愛未満~江戸化する日本人

第3章:愛と死を考えることは、生きる意味を考えること

第4章:変わりゆく日本人の死生観と愛のかたち

第5章:まとめ〜愛を選ぶ勇気を持つために



【第1章】愛は虚無への答えになるのか?


社会心理学者エーリッヒ・フロムは、『愛するということ』の中で「愛とは能動的な行為であり、成熟した人格にのみ可能だ」と述べています。彼によれば、「恋愛」と「愛」は別物です。恋愛は感情の高ぶりであり、自発的にやってくるものでしょう。


一方、「愛」は自らの意思によって選び取り、育むべきものであるとフロムは言います。婚活をする若者たちは、恋愛経験が少ないゆえに「恋愛感情」が訪れるのを待ち望んでいます。しかし、それだけでは愛は生まれない。能動的に相手を愛する覚悟、人生を共に歩む覚悟が必要です。


1-1 否認という心理的防衛機制

では、どうして多くの人がその覚悟を持てないのでしょう?それは、心理学的に言う「否認」という防衛機制が働いているからです。


否認とは何か?
否認とは、現実の脅威や不安、特に死のような受け入れがたい真実を意識から排除し、自分自身を守ろうとする心の働きのことを指します。人間は本能的に、不安や恐怖を回避し、できる限り心の平穏を保とうとします。特に、「自分がいつか必ず死ぬ」という厳然たる事実は、精神的な安定を大きく揺るがすものです。


死を直視できない理由
死を意識することは、自分の存在が有限であることを直視することであり、それは誰にとっても辛く、恐ろしい経験です。現代社会では、死は病院や施設の中に隔離され、日常生活の中で語られることはほとんどありません。

特に都会で育った若者たちにとって、人の死に直面する機会は極めて少なく、祖父母の最期すら見届けることなく過ごすケースが増えています。そのため、死をリアルなものとして捉えられないまま大人になり、「自分もいつか死ぬ」という現実に直面する機会が乏しくなっています。


否認がもたらす影響
この死に対する否認が、生きることのリアリティを薄れさせ、結果として愛という深い人間的つながりへの切実な願望や覚悟を失わせてしまうのです。死を直視しないことは、「今を生きる意味」や「誰かと深くつながることの大切さ」を実感しにくくする要因となります。
私たちは死を否認することで、安心感を得ているように感じます。しかし、その代償として、愛に飛び込む勇気を失い、孤独や虚無を深めてしまっているのかもしれません。


1-2 充実しているはずなのに感じる違和感


仕事はそれなりに充実している。毎日忙しく、休日は友達とランチに出かけたり、Netflixを観てのんびり過ごしたりする。けれど、夜、ふと静けさに包まれる瞬間に「このままでいいのかな?」と胸の奥がざわつく。それは独身であろうと、既婚者であろうと、変わらないはずです。


何かが欠けている感覚

一体、なぜなのでしょう? 何かが欠けている? 結婚や子育てをしている友人たちに置いて行かれているような気がするだけ? それとも、成功者としてセレブな人生をエンジョイしているカップルが妬ましい?


その正体は「虚無」かもしれない

おそらく、それは「虚無」です。虚無とは、簡単に言えば「生きている意味がわからない」という感覚。日々の忙しさの中で、ある程度の満足感は得られているはずなのに、心のどこかがぽっかり空いている。その空洞を埋めるために、仕事を頑張り、楽しみを増やそうとする。働いて、お金を稼いで、時には独りで気ままな旅をして、それを遣って楽しく暮らしている。しかし、それでも満たされない何かがある——それが虚無なのです。



1-3 人間の本質的な孤独と存在の問い


人間は本質的に孤独な存在です。哲学者サルトルが指摘したように、人間は自由であるがゆえに、自らの存在の意味を絶えず問い続ける宿命を負っています。どれだけ外面的な富に満たされ、周囲に友人や家族がいても、「自分は独りだ」と感じる瞬間があります。


有限性と人生の意味
この孤独を意識するのは、自分が「有限の存在である」と気づくときです。その有限性ゆえに、自分自身の人生の意味を決定する責任を常に背負わなければなりません。サルトルの言う「存在が本質に先立つ」という言葉は、自分が生きる意味を自分自身で創造する必要性を示しています。


愛が孤独を超える手段となるのか?
では、この孤独から抜け出す手段はあるのでしょうか? 人類が発明したその答えの一つが「愛」です。愛とは、ただ他者と一緒にいることではなく、他者と深くつながることで、自分自身の存在の意味を見出す行為でもあります。だからこそ、愛を知ることは、孤独の苦しみを乗り越え、自らの生を真に充実させる鍵となるのです。


また、サルトルの同志でのちに思想上の対立から袂を分かったアルベール・カミュは、「人生の不条理」を説きました。カミュによれば、世界には本質的な意味がなく、その無意味さに直面したとき人は「不条理」を感じます。この不条理感が、人間の孤独や虚無をさらに深めるのです。

しかしカミュはまた、この不条理を受け入れて生きることにこそ人生の価値を見出しました。私たちが虚無に対峙するとき、愛という他者とのつながりを通じて、生きる意味を創り出していくことが重要になります。



【第2章】恋以上、愛未満~江戸化する日本人


ここまで愛を求める必然性や、置かれた人間の条件を急足で探ってきました。今思うのは、愛を求めようとはしないように見える、あるいは同じことですが生きる意味をも深く知ろうとしないーー少なくとも積極的にはーー現代の若者、そして日本人だけが人類の歴史の例外だとでもいうのでしょうか?


「『愛』ってなんだっけ?」

最近、若い人達の婚活カウンセリングをしていてよく思うことがあります。もちろん、色恋や恋愛は昔から文化の一部だったし、「愛してる」なんて言葉は日常の中にあふれています。若い人たちは、否、若いからこそ、そのくらいには学習したり馴染んでもいるはずです。

でも、その「愛」が西洋思想でいう「アガペー」、つまり無償の愛や、個人を超えた普遍的な愛のような、深い意味を持っているかというと、どうも怪しいのです。


2-1 アガペーとは何か?


アガペー(Agape)は、ギリシャ語で「無償の愛」「自己犠牲の愛」を意味し、キリスト教思想においては神の愛そのものを指します。この愛は、相手の価値や行動によるものではなく、見返りを求めない純粋な愛の形です。たとえば、親が子を無条件に愛するような関係、または困っている他者を助ける慈善的な行為などがアガペーの例として挙げられます。


神との関係性と愛
キリスト教において、アガペーは「神が人間を無条件に愛する愛」とされ、信仰者もまたその愛を持って生きることを求められます。神の愛は、人間がどのような存在であれ、どのような過ちを犯そうとも変わることがないものとされています。

この視点から見ると、アガペーとは、単なる個人的な愛情ではなく、世界や人間全体を包み込む普遍的な愛と言えるでしょう。


2-2 日本における無償の愛の受容の難しさ


日本の文化的背景において、「無償の愛」という概念はやや馴染みが薄いかもしれません。日本では、「愛」という言葉が比較的情緒的であり、個人的な関係性の中で成立するものとして捉えられがちです。そのため、アガペーのような無条件の愛や普遍的な愛の概念は、十分に理解されないことも多いのです。


日本の歴史と愛の形

日本の歴史を振り返ると、武士道では「義」が優先され、家や共同体の存続が個人の感情よりも重視されてきました。農耕社会においても、個人の恋愛や愛情よりも、家族や村社会の調和が何よりも大切にされてきました。

そのため、「愛」という概念が現代的な個人主義の文脈ではなく、より集団的な価値観のもとで形成されてきたのです。明治維新の立役者・西郷隆盛の座右の銘「敬天愛人」にしても、天地の道理と”利他の心”を説いた、儒教的な色彩の濃い教えです。


西洋的な愛への憧れと実践のギャップ

しかし、どこかで私たちは西洋的な「愛」に憧れ始めました。明治維新以降、西洋思想やキリスト教が日本に流入し、敗戦後、恋愛結婚が広がる中で、「愛」が崇高なものとして理想化されていきました。映画や文学を通して享受するその一方で、その実践には不慣れなままでした。このアンバランスさが、現代の「恋以上、愛未満」の空白を生み出しているのかもしれません。


神との関係性とアガペーの受容

西洋における「アガペー」は、神(絶対者)との関係性の中で語られることが多く、キリスト教においては神が人間を無条件に愛する愛とされています。信仰を通じて、神の愛を体験し、それを他者に広げていくことが求められます。
一方、日本の宗教観は、自然崇拝や祖霊信仰が根付いており、「神との個人的な関係」よりも「調和」や「先祖とのつながり」が重視されます。そのため、西洋のアガペーが持つ「個を超えた普遍的な愛」の概念は、日本文化においては直接的に根付きにくい部分があるのかもしれません。


2-3 現代日本における愛の空白


このような文化的背景から、現代の日本において「愛」という言葉が単なる感情的なものに留まり、深い意味を持つことが難しくなっているのかもしれません。恋愛ドラマや小説で語られる「愛」は、しばしば一時的な情熱やロマンチックな関係として描かれますが、それが普遍的で永続的な「無償の愛」に結びつくケースは多くありません。
この空白を埋めるために、私たちは改めて「愛とは何か?」を問い直す必要があるのではないでしょうか。


フロムの指摘する虚無と有限性

エーリッヒ・フロムは、このような「虚無」の感覚が「自分が有限である」という認識から生じていると指摘します。つまり、私たちは必ず死ぬ存在であるという事実に向き合う必要があります。この虚無を乗り越える手段としてフロムが挙げるのが「愛」です。


愛とは何か?

フロムにとって、愛とは単なる感情ではなく、能動的な行為であり、自己を超えて他者と深くつながることを意味します。愛することで人は、「自分独りではない誰かのために生きている」という実感を得ることができます。これは、単に孤独を埋めるためのものではなく、自分自身の生をより深いものへと変える行為なのです。


婚活における愛の目覚め

たとえば、婚活をしている時、交際中に「この人と一緒にいたい」「この人を幸せにしたい」という気持ちが芽生えることがあります。この感情こそが、孤独や虚無を超え、誰かとの絆を築くための第一歩なのです。

愛とは、自己を超えて他者とともに生きる決意をすること。この決意が、人間が持つ根源的な不安や虚無を和らげ、生きる意味を見出すきっかけとなるのです。


しかし、現代の若者たちは、恋に留まり、愛に踏み込むことをためらっているように見えます。それは後で見るように社会全体が死を遠ざける構造になっているからかもしれません。

「恋以上、愛未満」の空白の中で揺れる現代の私たち。

その問いに向き合う勇気は、どこから湧いてくるのでしょうか。それとも、もうその問いを抱えたまま生きるしかないのでしょうか。





【第3章】愛と死を考えることは、生きる意味を考えること


3-1 愛が生きる意味をもたらす


ヴィクトール・フランクルは『夜と霧』で、生きる意味を持つためには「愛」が不可欠だと述べました。ナチスの強制収容所という過酷な状況でも、愛を持つことで人は生への希望を失わずにいられたのです。


フランクルが語る愛と人間の尊厳

フランクルは、収容所での極限状態においても、人が希望を持ち続けるためには「愛する人の存在」が決定的に重要であると指摘しました。たとえ自由や財産を奪われ、死が間近に迫っていたとしても、「愛する誰かのために生きる」という意識がある限り、人は希望を失わずに生き延びることができるのです。フランクルは歴史の生き証人として、それを実証してみせました。


愛は究極の自由

フランクルの思想において、愛は環境や状況によって左右されるものではなく、個人の内面に根ざした「究極の自由」として存在します。たとえすべての自由を奪われても、「誰かを愛し、その人の幸せを願う」という内面的な自由だけは、何人たりとも決して奪うことができない。この考え方は、愛を求めることが単なる感情ではなく、人生を支える本質的な力であることを示唆しています。


愛と生の目的

現代に生きる私たちにとっても、フランクルのこの考え方は大きな意味を持ちます。忙しさや孤独の中で虚無を感じることがあっても、「誰かを深く愛し、その人の存在が自分の生の意味となる」という体験を持つことで、人は本当の充実を得ることができるのです。
愛とは単なる感情の高まりではなく、生きる目的そのものになり得るのです。


3-2 愛と死の不可分な関係


昔から「愛と死」はセットで語られてきました。愛は死への恐れを癒し、死は愛の本質を照らし出します。かつては、多くの映画や小説、芸術が競って「愛と死」をテーマに描いてきましたが、高度経済成長期以降、経済的合理性がすべてを支配するようになり、「愛」はロマンチックな感情や合理的なパートナーシップに矮小化されてしまいました。この「分断」が、現代における「愛を知らない」あるいはそれゆえに「愛を求めない」人々の背景にあるのかもしれません。


死を直視することで生まれる愛の意味

黒澤明の名作『生きる』でも、主人公の渡辺は死を宣告されて初めて生きる意味を見出します。長年、市役所の官僚として無気力に生きてきた彼は、胃がんを宣告されたことで自分の人生を振り返り、限られた時間の中で「本当に何をすべきか」を考え始めます。


戦後日本と『生きる』の社会的背景

この映画が公開された1952年の日本は、戦後復興期の真っ只中でした。経済成長が始まり、人々は生存のために必死に働いていました。しかし、戦争の記憶と喪失感がまだ色濃く残る時代でもありました。『生きる』は、そうした時代にあって「本当に意義のある人生とは何か?」という問いを投げかけたのです。


主人公・渡辺が示す「死と愛の再発見」

渡辺は、残された時間の中で、自分が関わることで誰かの人生に影響を与えることができると気づきます。そして、公園建設のために奔走し、周囲の無関心と官僚的な壁を乗り越えていく。その過程で、彼は単に自分の生の充実を求めるのではなく、社会に貢献し、後世に何かを残すことの意義を見出します。


彼が最後にブランコを揺らしながら静かに歌うシーンは、単なる個人的な達成感ではなく、「社会の中で何かを残すことが人間の生きる意味を深める」という普遍的なテーマを象徴しています。多くの人々の心に「死を意識することで初めて生を実感できる」という強いメッセージを刻みながら、同時に「愛とはエゴを超えて誰かのために尽くすことでもある」という深い問いを投げかけています。


『生きる』が現代に与える影響

今日の日本社会においても、『生きる』が伝えたテーマは色褪せていません。むしろ、社会のシステムの中で日々を淡々と過ごし、愛や情熱を後回しにする風潮が続く現代にこそ、この映画のメッセージが求められています。生と死を意識することが、愛を再発見する契機となるのです。


その証拠に、2022年にはイギリスで『生きる』のリメイク版『リビング』が公開されました。日本映画のリメイクは欧米では珍しいケースですが、この作品は大きな話題となりました。脚本を手がけたのはノーベル文学賞受賞作家のカズオ・イシグロ。主演はイギリスを代表する名優ビル・ナイ。彼らの手によって、『生きる』の物語が英国の文化と価値観の中に再解釈され、現代社会においてもなお普遍的なテーマであることが証明されたのです。


リメイク版は、戦後の日本ではなく1950年代のロンドンを舞台に置き換えられましたが、そこでも「無意味な日常の繰り返しの中で、死を意識することで初めて生きる意味を見出す」という原作のテーマはそのまま引き継がれました。この事実は、『生きる』が国や時代を超えて、人間の根源的な問いに訴えかける力を持っていることを示しています。


3-3 経済的合理性と愛の希薄化


現代社会では、恋愛や結婚さえも経済的な視点から語られることが増えました。「結婚のコスパ」「パートナー選びの合理性」という言葉が示すように、愛は効率や利益と結びつけられるものとなり、コストパフォーマンスの良し悪しで評価される対象になっています。こうした考え方が浸透することで、愛に必要な感情の深みや覚悟が軽視され、「愛の本質」が見失われつつあるのです。


死を意識することで愛が深まる

私たちは死を避けることで安心感を得ているように感じますが、それは同時に愛の本質を遠ざけることにもつながっています。愛が深まれば死への認識も深まり、その逆もまた真なり。死の存在を受け入れ、それを直視することができたとき、愛はより深い意味を持つようになります。なぜなら、愛とは有限な人生の中で誰かと深くつながることだからです。愛することは、限られた時間の中でこそ価値を持ち、その有限性こそが愛をより強く、切実なものへと昇華させるのです。


日本人の特異な死生観と祖霊信仰

日本人の死生観の根底には、祖霊信仰があります。「死んだら親や祖父母の眠るそばへ行く」「死後は先祖や亡くなった近しい人と再会する」という感覚は、日本人の「あの世」観を支える集合的無意識の一部であり、共同幻想でもあります。この伝統的な価値観は、多くの日本人にとって死を特別なものではなく、ある種の継続として受け入れやすくする働きを持っています。


死の安心感と愛の発展への影響

この感覚が死への安心感を与える一方で、血縁を超えた愛を求めるニーズを抑えている可能性もあります。死後の世界で家族と再会できるという考えは、個人が「今ここで他者と深くつながる必要性」や「愛を積極的に追求すること」の動機を希薄にしてしまうことがあるのです。結果として、恋愛や結婚においても、個人的な情熱よりも社会的役割や家族関係の延長としての意識が強調されがちです。


日本人の「血縁信仰」と愛のかたち

この現象は、日本人の「血縁信仰」とも深く関わっている可能性があります。日本では、血縁を重視する価値観が根強く、家系や先祖とのつながりが個人のアイデンティティに大きな影響を与えてきました。天皇家を筆頭に、芸能人や歴史上の偉人への憧れ、貴種信仰が今なお根付いているのはその証拠でしょう。


また、日本のアニメやゲームにおいても「貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)」と呼ばれる物語が繰り返し描かれています。これは、特別な血筋を持つ主人公が流浪の旅を経て自己を確立し、最後に真の居場所を見つけるという物語構造です。スタジオジブリの作品や、多くの少年漫画のストーリーラインにこの要素が見られます。

このような物語が受け入れられ続けている背景には、日本人の無意識の中に「血統」に対する憧れが根強く残っていることが関係しているのかもしれません。
この血縁信仰が、血のつながりを超えた普遍的な愛を求める意識を希薄にし、恋愛や結婚においても、当事者同士の「愛」よりも「家の存続」や「社会的役割」が今なお重視される風潮を生んでいる可能性があります。


普遍的な愛の発展を妨げる要因とは?

もしかすると、この価値観が普遍的な愛の発展を妨げているのかもしれません。キリスト教的なアガペーの概念が西洋で根付いた背景には、「個人と神との関係性」が深く関わっています。しかし、日本の伝統的な宗教観は、祖先とのつながりや社会全体の調和を重視するものであり、「個を超えた普遍的な愛」よりも、家族や共同体の存続を優先する傾向が強いのです。


戦後文学と主体性の模索

その意味で、敗戦後に生まれた「戦後文学」は、高度経済成長期の波の中に飲み込まれて泡と消えたのかもしれません。戦後文学が描こうとしたのは、国家の枠を超えた個人の主体性の確立であり、愛が血縁や社会のしがらみを超えて存在し得ることへの模索でした。


大江健三郎や三島由紀夫、遠藤周作らの作品には、戦争を経験した日本人がどのように個としてのアイデンティティを取り戻すのか、また、人間としての愛の本質をどう見つめ直すのかといったテーマが色濃く描かれています。だが、高度経済成長とともに日本社会は経済的繁栄を優先し、戦後文学の提示した「愛と主体性」の問いは、大衆の意識から遠のいていきました。
経済成長のなかで、人々は共同体や血縁を重視する価値観へと回帰し、それが現代の「恋以上、愛未満」という状況を生み出しているのだとしたら皮肉としか言いようがないかもしれません。



【第4章】変わりゆく日本人の死生観と愛のかたち


近年、核家族化が進み、伝統的な祖霊信仰の影響は徐々に薄れつつあります。その一方で、「死」に対する認識も変化しており、愛と死の関係を見つめ直す機会が減少しています。こうした変化の中で、愛をどのように再構築し、普遍的なつながりへと昇華させていくのかが、今後の日本社会にとって重要なテーマとなるのではないでしょうか。


4-1 エゴを超える愛の視点


画家ゴーギャンが問いかけた「我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこへ行くのか」という深い問いは、自らの存在の有限性を認識し、生きる意味を探求するきっかけを与えます。自分が有限であることを意識したとき、エゴを超えた大きな愛の視点にたどり着くのです。


愛とは単なる感情の高まりではなく、自己の枠を超え、他者と深くつながることによって生まれるものです。人間関係が条件や役割に縛られると、愛は疲労感や虚無感を生むことがあります。しかし、病に倒れたパートナーを看病する中で、人はしばしば自己を超えた「大きな愛」に触れる瞬間を経験します。このような視点を持つことで、結婚やパートナーシップの目的そのものが変わり得ます。


結婚相手を「鏡」として捉え、その人の瞳の奥に普遍的な愛や魂レベルでのつながりを見出すことができれば、個人の感情や条件を超え、生命のつながりそのものへの感謝や感動へと至る愛に昇華することも可能です。


4-2 死生観を見つめ直す通過儀礼としての婚活


婚活とは、単に理想のパートナーを見つける活動ではなく、自分の人生の意味を問い直し、自分自身の死生観と向き合う通過儀礼でもあります。なぜなら、「誰かと生きる」ことを選ぶという行為は、「一人で生きる時間の終わり」を意味し、有限な人生の中で他者とどのように関わりながら生きるのかという問いに正面から向き合うプロセスだからです。


この視点を持つことで、婚活は「条件マッチングの場」ではなく、「生きる意味を共有できる人を探す場」へと変わります。
現代の経済至上主義を超え、愛というテーマに真剣に向き合うためには、私たち自身の死生観を問い直す必要があるのかもしれません。

愛は、あらゆる生命や自然、誕生と死、人間存在そのものへの感謝と感動の表現でもあります。

この視点を取り戻すことで、私たちの日常には再び鮮やかな色彩が戻り、婚活や人間関係にも新たな生命エネルギーが注ぎ込まれるでしょう。


死を遠ざける社会が生んだ愛の空白

現代日本では死が日常から遠ざけられ、若い世代は死に触れる機会が極端に少なくなっています。核家族化により祖父母の最期を直接見守る機会すら少なく、死は病院や施設で隔離されています。実際、「人生で一度も死に触れた体験がない」と語った女性もいます。このような「死」の現実感の希薄さが、深い愛を実感する機会を奪っているのです。


この発見こそが、本稿の重要な出発点でした。死を見つめることなくして、人間の有限性を深く理解することは難しいのです。自分の有限性を認識しないままでは、「愛すること」の深みにも触れられないのではないでしょうか。


フロイトが指摘するように、人間が拒絶や失恋を恐れるのは、それが心理的な死を意味するからです。心理的死とは、自己の存在が否定されることへの強い恐怖であり、他者からの拒絶によって生きる価値を揺るがされる状態を指します。

特に、愛は自己を開示し、深く関わる行為であるため、拒絶されたときのダメージは計り知れません。そのため、現代の若者は、まさにこの心理的な死を恐れて、愛に踏み込むことをためらっています。


4-3 SNS時代における心理的死の恐怖


この心理的死への恐怖は、SNSやネット社会の中でさらに強まっています。誹謗中傷による自死や、いじめによる自死の背景にも、この「心理的死」の概念が深く関わっているのかもしれません。他者からの評価が可視化され、瞬時に広まる時代において、人々はますます「拒絶されること」に敏感になっています。


現代では、SNSを通じて自分の存在が常に他者の目に晒される環境が整っています。わずかな失敗や批判が瞬く間に拡散され、人格そのものが否定されたかのように感じることも少なくありません。このような状況が、心理的死への恐怖を増幅させ、結果的に「リスクを冒してまで愛を求めること」を避ける傾向を生んでいるのです。


愛に踏み込むことが、自己の存在そのものを危険にさらす行為のように感じられるため、多くの人が消極的になり、孤立を選ぶのです。
しかし、ここまでみてきたように愛に踏み込まないままでは、人生の深い充実や幸福を味わうことは難しいでしょう。心理的死の恐怖を克服し、愛という人間の本質的なつながりを見つめ直すことが、現代社会においてますます重要になっています。


愛とは、ただ楽しいだけのものではありません。愛憎という相反する感情を織り混ぜ、「喪う可能性」を引き受けながらも他者とつながる行為です。だからこそ、愛することには勇気が必要であり、その分だけ人生に深い意味をもたらしてくれるのです。


「愛は虚無への唯一の答えである。」

その認識は間違いではないにしても、何かがずれ始めているようにも思うのです。地殻変動的な、知のパラダイムシフトが、いよいよ必要とされているのかも知れません。






【第5章】まとめ〜愛を選ぶ勇気を持つために


5-1 愛と死を受け入れる覚悟を持つ


もしあなたが今36歳だとすれば、あなたの両親は60代から70代半ば。10年から20年以内には必ず「親の死」という現実に直面します。その時になって初めて人生の有限性に気付いても、若く豊かな時間を取り戻すことはできません。
だからこそ、今この瞬間から自分の人生の有限性を認め、愛に踏み出す勇気を育てる必要があります。そのために、具体的な行動を試してみましょう。


1週間で試す「愛を選ぶワーク」

  1. 親や祖父母と深く会話する(家族の死生観を知り、自分の価値観を整理)
  2. 自分の死後について考える(遺書を書く、エンディングノートをつける)
  3. 誰かに「ありがとう」と伝える(愛を伝えることの意義を実感する)
  4. 1つの約束を作る(「この人と一緒に過ごすと決める」など、愛を選ぶ行動をとる)


愛とは、自分の弱さや限界を受け入れ、相手と共に生きることを決意することです。それにはリスクや犠牲も伴いますが、同時に人生を豊かに彩る喜びや感動をもたらします。


5-2 愛とは「つながり」と「存在証明」


愛することで、虚無を完全に消し去ることはできないかもしれません。しかし、その空白を少しずつ埋めて行くことは可能です。


愛を選ぶための問い

  1. もし明日死ぬとしたら、今日一番会いたい人は誰ですか?
  2. 人生の最後にそばにいてほしい人は誰ですか? その人にあなたは今、何を伝えていますか?
  3. 5年後の自分にとって、今の「恋以上、愛未満」の状態はどう見えますか?


こうした問いに答えることで、自分にとって本当に大切な人が誰なのかが見えてくるかもしれません。

しかし、その空白を少しずつ埋めて行くことは可能です。

愛とは、誰かとつながることで、自分が「ここにいる」という実感を持つための大切な行為なのです。

愛は他者との関わりの中で成長し、自分の存在を確認する手段でもあります。


5-3 「恋以上、愛未満」からの脱却


「恋以上、愛未満」の空白から抜け出すためには、死を直視し、真剣に愛を求める勇気が必要です。

その勇気が、あなたの人生を本当の意味で輝かせ、生きることの真の喜びを味わせてくれるでしょう。


実際のケーススタディ

Aさん(38歳・女性):「仕事中心の生活だったが、ある日、両親の健康問題に直面し、父親の看取りを体験。自分の人生の有限性を痛感。その後、本気で婚活を始め、半年後にパートナーを見つけた。」


Bさん(33歳・男性):「ずっと結婚に自信がなかったが、母親の急逝をきっかけに『大切な人と人生の時間を共有すること』の意味を考え、婚活を開始。最初の数回はうまくいかなかったが、考えを変えたことで素晴らしい伴侶に出会った。」


このように、人生の有限性を意識し、具体的な行動をとった人は、愛を選ぶ勇気を持つことができています。その勇気が、あなたの人生を本当の意味で輝かせ、生きることの真の喜びを味わわせてくれるでしょう。愛を知ることは、あなたが生きる本当の意味を掴む第一歩なのです。


5-4 愛は選択であり、行動である


愛は偶然訪れるものではなく、意識的に選び取るものです。


愛を選ぶとは何か?

  1. 愛は「感情」ではなく「意志」:完璧な関係を求めるのではなく、共に成長し、育んでいく選択をすること。
  2. 誰といるかではなく、「どう在るか」:相手に理想を求めるのではなく、自分自身がどんなパートナーになれるかを考える。
  3. 愛は「一瞬の熱情」ではなく、「持続する行動」:恋愛感情が薄れても、選び続けることで関係は深まる。


この視点を持つことで、あなたが愛を選び取る勇気を持つきっかけになるはずです。

誰かと共に歩むと決めた瞬間から、あなたの人生は大きく変わります。

たとえ完全な理解や保証がなくとも、その選択こそがあなたの未来を形作る力となるのです。


人生最良の日々とは?

5年前に公開されたフランス映画『男と女〜人生最良の日々』は、「愛と死」そして「愛するとは何か?」を考えさせてくれる、私にとって稀有な映画体験でした。副題の「人生最良の日々」とは、一見、過去の栄光や、激しい恋に身をやつした若かった日々へのノスタルジーを連想させます。しかし、この映画は違いました。善い意味で期待を裏切ってくれました。


『レ・ミゼラブル』の作家、ヴィクトル・ユーゴーの言葉「人生最良の日々とは、まだ生きていない日々だ」から取られていて、(私の解釈が入りますが)つまり、人生最良の日々はまだ生きられてさえいない。これから訪れる。これから訪れるに違いないと確信できている心理。決して希望を失っていないわけです。この映画の主人公は、87歳の女性と、89歳の男性の、元恋人同士なのです。


つまり、私が言いたいのは、人の幸せは年齢ではなく、いつでも選択なのだということ。例え老人ホームで孤独をかこっていようと、人は、いつでも希望を選択できるのだという真理についてです。勇気と言い換えて良いのかもしれません。

結婚も、人を愛することも、誰かと愛し愛される関係に飛び込むことも、実は同じことだと私は考えています。




補遺:

フロイトの指摘について詳しく説明します。


フロイトの心理的死の概念とは?

フロイト(Sigmund Freud)は、精神分析学の創始者であり、彼の理論の中で「リビドー(性エネルギー)」と「タナトス(死の本能)」という二つの根源的な欲動を提唱しました。彼の理論によれば、人間は生存を維持する本能的なエネルギー(エロス)を持つ一方で、無意識のうちに破壊や自己消滅へと向かう欲動(タナトス)も持っているとされます。


その中で、「心理的な死」とは、個人が拒絶や喪失を経験したときに感じる深刻な精神的ダメージを指します。愛されないこと、必要とされないこと、自分の存在が無意味に思えることは、無意識のレベルで「死」に等しい恐怖を引き起こします。これはフロイトの「ナルシシズムの傷」にも関連しており、人は自己の価値を否定されることで、精神的な崩壊を感じるのです。


愛に踏み込むことへの恐れと心理的死

現代の若者が愛に踏み込むことをためらうのは、まさにこの「心理的な死」への恐れによるものです。愛に飛び込むことは、自己をさらけ出し、拒絶されるリスクを負うことを意味します。もし愛する相手に受け入れられなかった場合、自分の存在そのものが否定されたように感じることになるため、人は無意識のうちに「拒絶されるくらいなら、最初から愛を求めない方がいい」と防衛的な姿勢を取るようになります。


また、フロイトの「エディプス・コンプレックス」にも関連する部分があります。人は成長する過程で親との関係の中で愛を学びます。しかし、その愛が十分に満たされない場合、あるいは愛を表現することが抑圧された場合、大人になってからも「本当の愛を求めても得られないのではないか?」という恐怖を抱くようになります。結果として、愛への積極的な関与を避け、「愛しすぎると傷つく」「恋愛は面倒だ」「愛に見返りがないなら意味がない」といった合理化を行い、自己防衛の手段として愛そのものを遠ざけてしまうのです。


愛と死の関係:心理的な死を乗り越えるための愛

しかし、愛から逃げ続けることは、人生の本当の充実や幸福を味わう機会を逃すことにもつながります。フロイトの理論によれば、人間は「エロス(生の本能)」によって自己の充足と成長を求める存在です。愛を避けることは、結果的に自己を孤立させ、「精神的な死」へと向かうことになりかねません。


愛とは、心理的な死を受け入れ、それを乗り越えていく行為でもあります。他者との深いつながりを築くことで、傷つくこともあれば、拒絶されることもある。しかし、それらのリスクを乗り越えたときに初めて、人は本当の意味での充足感を得ることができるのです。


結論:愛することは心理的な死を受け入れる勇気

フロイトが示したように、人間は拒絶や喪失を恐れる生き物です。しかし、そこから逃げるのではなく、むしろ受け入れた先にこそ、本当の愛と人生の意味が待っているのです。心理的な死を恐れるのではなく、それを乗り越えることで、愛の本質に触れることができる。この視点を持つことが、現代の若者が愛に向き合う上での重要なヒントとなるのではないでしょうか。




(婚活メンター・ひろ)



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