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婚活で“人を好きになれない”私へ|婚活心理学Vol.17──心が動かない理由と、結婚願望のゆらぎ

婚活相手に”恋愛感情が湧かない”

はじめに|“好きになれない”という繊細な痛みに寄り添う旅へ


「相手が好きになれない」「会っても会っても恋愛感情が湧かない」
そういう悩みを抱えたまま、何年も何年も、会い続けて、婚活を続けている方は実は、大勢います。


本稿は、婚活者との対話を通して見えてきた「恋愛感情の不在」という静かな違和感から始まりました。
相手の条件は整っている。会話も不自由なく続く。

けれど──誰に会っても心が動かない。ときめかない。愛せる気がしない。


それは、ただの”親密感の怖れ”でも、“相性の問題”でもなさそうなのです。

そこには、「誰かと深く関わること」に対する根源的な恐れや、「愛し愛される関係を持ちたいのに、好きという感情が湧いてきそうもない」という感情の混乱が潜んでいます。


そしてその“好きになれなさ”は、あなたが育ってきた家族の空気、親との関係、家庭の中で学んできた「関わり方」から、静かに影響を受けているかもしれません。


親が不仲だったり、夫婦仲が冷え切った家庭では、親密さとは無縁の「我慢」や「傷つけ合い」の場だったかもしれない。

愛情表現の少ない家庭では、「好き」という言葉自体がどこか嘘くさく、縁遠いものになってしまったかもしれない。


だからこそ、いざ婚活の場に立っても、「感情を動かす」という行為そのものに、自分でも気づかぬうちにブレーキをかけてしまうのです。
加えて──本稿では、あまり語られてこなかったもうひとつの核心にも光を当てていきます。


それは、「セクシャリティ(性のあり方)」という深層の問題です。


女性は、成長の過程で無意識のうちに、こうした規範や刷り込みを内面化していきます。


  • 「愛される女」になることへの期待:
    ──振る舞いや容姿、言動を“誰かの理想”に最適化していくこと。
  • 性愛=消費されるものという視線:
    ──自分の身体や魅力が、他者に評価されるための“商品”になってしまう感覚。
  • 愛とは自己犠牲であるという誤学習:
    ──「我慢してこそ愛される」「感情を出せば嫌われる」といった家庭的信念。

こうした無意識の“規範”や“防衛”が、いまのあなたの恋愛感情のベースに影を落としているかもしれません。


本論考は、回避型愛着や防衛機制、そしてジェンダー規範やセクシャリティに関する視点を手がかりにしながら、「なぜ恋愛感情が動かないのか」という問いをひとつずつ紐解いていく、関係のリトリートです。


婚活、それもお見合いでの婚活という舞台を通して、“好きになれない私”ではなく、“好きになることを怖がっている私”に出会い直す時間になることを願って──。


序|婚活で「相手が好きになれない」のはなぜ?


お見合いからの帰り道。駅までの道を歩きながら、彼女は小さくつぶやきました。

「いい人でした。でも……やっぱり、心が動かないんです」


条件は整っていた。誠実で、優しく、会話も続いた。 なのに、どこか心が“すれ違ったまま”だった。

そうした声を、婚活の現場で私たちは幾度となく耳にしてきました。


そして、そんなとき、多くの女性は自分を責め始めます。「私、感情が壊れてるのかな」「どこか欠けた人間なのかもしれない」

けれど──その“感情が動かない”という違和感を、ちゃんと感じ取っているということこそ、あなたの感性が今も確かに生きている証拠なのです。


婚活市場では、プロフィール、年収、価値観の一致など、“条件”に基づいた判断が優先されがちです。

けれど、人と人が関わるときに本当に大切なのは、「一緒にいてほっとする感じ」や「無理なく息ができる時間」のようなものではないでしょうか。


婚活の現場では、条件は揃っているはずなのに「なぜか苦しい」「心がついてこない」という声がよく聞かれます。

それは、“目に見える条件”の問題ではなく、もっと感覚的な──たとえば、会話のテンポが合うとか、沈黙が気まずくないとか、「この人のそばにいても自分でいられる」と思えるような、日常の安心感に関わる問題なのです。


セクシャリティとの距離感

同時に、ここで考えておきたいのは、「好きになれなさ」の奥にある“セクシャリティ”との距離感です。

たとえば、子どもの頃から性的な話題が家庭内でタブー視されてきた場合──自分が誰かに“女性として見られること”そのものに無意識の抵抗や嫌悪感を抱いてしまうこともあるかもしれません。


あるいは、「愛される女」であることを無言のうちに求められ、「いい子」「優しい子」「清楚な子」として振る舞ってきた経験が、“自分の本音”や“素直なときめき”にブレーキをかけていることもあります。


婚活という舞台に立つとき、ただ条件だけで相手を見ているのではなく、私たちは無意識のうちに「この人と深く交わることで、性的な関係や役割が始まってしまうのだ」という見えない抵抗とも向き合っているのです。

だからこそ、“心が動かない”という感覚は、ときに「本能的な違和感」ではなく、「刷り込まれた性の回避」かもしれません。


この論考では、その“揺らぎが感じられない自分”にやさしく寄り添いながら、もう一度、関係の始まり方を見つめ直していきます。

恋愛感情が湧かないのではなく──「感情を置いてきた場所」に、まだ戻れていないだけかもしれない。


その可能性に、そっと耳を澄ませるところから、この旅を始めてみませんか?


婚活相手が近づくと遠ざけたくなる

Ⅰ|婚活で親密さを避ける心理──相手が「近づくと遠ざけたくなる」


婚活での初対面。穏やかな雰囲気の男性と、静かに会話が続く。笑顔は自然で、受け答えもそつがない──けれど、ふとした沈黙の中で、心がすっと覚めていく。


「なぜか、一歩近づくのが怖いんです」

そう呟いた女性の目には、説明のつかない緊張が滲んでいました。私たちが「親密さ」に足を踏み入れるとき、それは誰かに“素の自分”を委ねるという、実にスリリングな行為でもあります。


どんなふうに笑うのか、どんなことで傷ついたのか、どれくらい不器用に誰かを愛そうとしているのか── そうした自分の“内側”を垣間見るたびに、心の奥でささやく声があるのです。


「拒絶されたらどうしよう」「好意の気持ちを見せたら、軽く扱われるんじゃないか」

それらの声が、親密さの入り口で私たちを足止めするのです。


家族の親密さのスタイルが影響

この“足がすくむ感覚”の背景には、育った家庭で学んだ親密さの「スタイル」が影を落としているかもしれません。

もしも、あなたの両親が仲睦まじく、心を通い合わせる姿を見たことがなかったとしたら、あるいは親に自分の気持ちを受け止めてもらえた経験が乏しかったとしたら── 「誰かに気持ちを開く」ということ自体に、過剰なリスクや痛みを覚えるようになるのは自然なことです。


さらに、ジェンダー規範がここにも静かに作用しています。「親密になったら、女らしく振る舞わなければならない」「甘える=弱さ=嫌われる」といった刷り込みが、「踏み込まれるくらいなら、最初から一歩引いていた方がいい」という選択につながっていくのです。


親密感の怖れにまつわる不安は、ただの気の迷いではありません。それは、あなたの過去の体験や、社会的に内面化された規範の中で育まれてきた、深い記憶と知恵なのです。


だから、あなたが「踏み込めない」と感じたとしても、それは未熟さではない。むしろ、他者との関係を軽んじたくないという、深い誠実さの現れかもしれません。

この章では、「なぜ親密になることが怖いのか?」という問いを出発点に、 親密さを避ける心の構造を、やさしく、丁寧にひもといていきます。


「好きになれない」のではない。

「好きになったあとに何が起こるか」が、怖いだけなのかもしれない。

その親密感の怖れと向き合うところから、あなたの“関われる私”が少しずつ目覚めていくのです。


Ⅱ|婚活における“心の鎧”と回避型愛着──「頼れない私」の背景

「人に頼るのが苦手で……」


婚活の現場やカウンセリングの場で、女性たちがよく口にするこの言葉。
その奥には、長い時間をかけて築かれてきた“自立しなければ”という信念が、静かに息づいています。


仕事も生活も、自分で選び、自分で決めて、自分で抱えてきた──そんな人生の延長線上に、今の婚活がある。
だからこそ、「誰かと共にいる」という関係の入り口に立つとき、身体のどこかがこわばるのです。


けれどそれは、わがままでも、冷淡でもありません。多くの場合、「頼らない」ことの背景には、かつて「頼れなかった」経験があるのです。


たとえば──

  • 甘えようとしたとき、親に突き放されたこと。
  • 「自分でなんとかしなさい」と言われて、感情を飲み込んだこと(多いのは「お姉ちゃんなんだから我慢しなさい」)。
  • 頼った結果、相手に怒られたり、無視されたりして、心に傷を負ったこと。

そうした体験が重なると、人は「自分の感情に触れないことで、自分を守る」という生き方を選ぶようになります。


回避型愛着スタイル

これは心理学でいう“回避型愛着”スタイルを持つ人の特徴であり、過去の痛みから自分を守るための戦略です。このスタイルを持つ人は、他者との距離を保つのが上手で、冷静で、しっかりして見えます。


けれど、いざ誰かと親密な関係に入ろうとするときだけ、心にブレーキがかかる。
「この人と深く関わってしまったら、また傷つくかもしれない」
「頼ったら、戻れなくなるかもしれない(自立・自律が保てない)」


そんな怖れが、無意識のうちに立ち上がるのです。そしてこのブレーキは、多くの場合、家庭環境や親との関係性に由来します。

とくに、感情的なつながりよりも“成果”や“自立”を重視する家庭に育った女性は、「人に頼ること」や「感情を開くこと」に、強い慎重さを抱える傾向があります。


さらに、性役割の刷り込みも影響しています。

「しっかりした娘であれ」「迷惑をかけるな」「誰にも甘えない強い女性になれ」──
そんなメッセージを、明言されなくても空気で感じて育った場合、誰かに心を預けること自体が“失格”のように思えてしまうのです。


”頼る”から支え合うへ

けれど、心のどこかでは気づいているはずです。

  • ──ほんとうは、誰かに寄りかかってみたかった。
  • ──ほんとうは、「助けて」が言える自分になりたかった。

婚活の場では、その“本音”が試されます。


それは、恋愛という名のゲームではなく、自分の鎧を少しだけ緩めてみる、慎重で誠実なプロセスなのです。大切なのは、鎧を脱ぎ捨てることではありません。
鎧を着たままでも、その隙間から、ほんの少しだけ顔をのぞかせてみること──。


たとえば、「大丈夫」と言いかけたその瞬間、ほんの一拍だけ間を置いて、「本当は、ちょっとしんどかった」と言ってみる勇気。それだけで、ふたりの関係に風が通るのです。


頼らないことは、たしかにあなたの強さでした。でも、支え合うことは、これからの“ふたり”の強さになる。
その違いに、あなたが少しずつ気づきはじめたとき、婚活は「条件を満たす時間」から、「自分を取り戻す時間」へと、静かに姿を変えていきます。

婚活で恋愛感情が湧かない

Ⅲ|婚活で「恋愛感情が湧かない」──恋愛幻想の後遺症と”感じる力”の再生


婚活の最中、何人もの人に会っているのに、どうしても“好き”という気持ちが湧いてこない──。
そんなとき、心の中にひっそりと沈んでくる問いがあります。


「私、どこか壊れてるんじゃないか?」
「どうして誰にもときめかないんだろう?」


それは、誰にも見せられないまま抱え込まれてきた疑念であり、比べるつもりがなくても浮かんできてしまう、他人との落差でもあります。
──でも、ほんとうに“壊れている”のでしょうか?


感情が湧かないのではなく、「感情が安心して動ける場所を、まだ見つけられていないだけ」なのかもしれません。
思い出してみてください。
子どもの頃、「うれしい」「怖い」「さびしい」「怒ってる」といった喜怒哀楽の気持ちを、誰かに素直に打ち明けられた経験がどれだけあったでしょうか。


とくに「好き」という感情を、自由にのびのびと表現できたでしょうか?
それを笑われたり、重たがられたり、拒まれた経験はなかったでしょうか?
多くの女性が育つ家庭や学校、そして社会のなかで、セクシャリティや愛情表現に関して無意識に内面化してきたものがあります。


たとえば──

  • 「感情を出す女は重い」「恋愛感情を語る女は軽い」そんな二重の刷り込み。
  • 「性的な関心を持たれてはいけない」一方で「魅力的であるべき」という矛盾。
  • 「恋愛をすること=誰かに選ばれること」だとする構図の中で、常に他者の視線を意識しながら育つ日常。

こうした“感情の自己検閲”が、知らず知らずのうちにあなたの内面に「感情を動かさないことで、守る」という構えをつくってきた可能性があります。


恋愛が自然に湧いてこないのは、あなたが冷たいからではない。
それは、過去の経験や環境の中で、「感情を動かすこと」や「誰かに惹かれること」に対して、無意識の不安や抵抗が育まれてきた結果かもしれないのです。


性的防衛機制

さらにもう一歩踏み込んで考えるなら──あなたの中に眠っている「性的な自己像」が、どのように形成されてきたのか。
たとえば、家庭内で性について語られることがほとんどなかった。
または、性に関する話題が“タブー”とされてきた。


そんな環境では、「誰かを好きになる=性的な関係性を意識せざるを得ないこと」自体が、無意識的に“こわいこと”になってしまう。
恋愛感情が湧かない・好きになれない理由の背景には、「関わりたいのに、関われない」「愛したいのに、身体が反応しない」
そんな“性的な防衛”が隠れていることも少なくありません。


それでも、私たちはどこかでこう思っています。
「燃えるような恋こそ本物だ」「雷に打たれるような出会いがあるはずだ」
──でも、恋愛感情は火ではなく、大地に似ています。
婚活で育てていくべき感情は、一瞬の熱情ではなく、持続可能な共感としての、静かな愛情なのです。


たとえば──

  • この人と話していると、変に気を遣わなくていい。
  • 帰り際に「また会えるといいな」と自然に思えた。
  • 不器用だけれど、丁寧に自分を大切にしようとしてくれている。

そうした瞬間に湧いた感覚こそ、恋愛感情の“芽”かもしれません。


恋愛感情は稲妻のように降ってくるものではなく、誰かとのやりとりの余白で、少しずつ息を吹き返すものです。
だから、あなたが「恋愛感情が湧かない」と感じるとき、それは「壊れているサイン」ではなく、まだ“安心して感じられる関係”に出会っていないサインかもしれません。


「私は、どんなふうに安心したいのだろう?」
「私は、どんな関係のなかで、心を開きたくなるのだろう?」
問いを変えれば、見える景色も変わってきます。


愛とは、衝動ではなく、応答である──


ここで思い出したいのが、哲学者マルティン・ブーバーが語った「我―汝」の関係性です。私たちはふだん、相手を「目的のための手段=モノ(It)」として見てしまいがちですが、「汝(You)」として関わるというのは、その人の存在そのもの(本質)と“対話”しようとする姿勢のことです。

つまり、相手を条件や属性で判断するのではなく、いまこの瞬間の応答のなかで「あなた」として関わるということ。


愛とは、衝動ではなく、応答である──この言葉が示すのは、ただ感情が湧くかどうかよりも、こちらの呼びかけに応答が返ってくる関係。

「その人とどう関わるか」「その関係をどう育てるか」が本質なのだということです。


そのような対話性のなかでしか、ほんとうの愛の感情は育たないのだとしたら?
それは誰かから“与えられるもの”ではなく、誰かとの間で、時間の経過の中で呼び起こされるもの。


“好きになれない”という静けさは、あなたの中の異常ではなく、「本物の感情でつながれる相手を、まだあきらめていない心」のしるしとして受け取るのです。


Ⅳ|「関係の中で自分が消える」──親密感の怖れとアイデンティティの危機


「この人といると、自分が自分でいられないような気がするんです──」
婚活の現場で、ときどき耳にするこの言葉。


相手に不満があるわけではない。むしろ、優しく、気遣いもあり、誠実な人。


けれど、会うたびにどこか疲れてしまう。
話す内容も、話し方も、テンポも、少しずつ“自分ではない誰か”になっていくような感覚。
この違和感の背景には、他者に合わせすぎてしまうクセがある。


けれど、それは単なる性格の傾向というより、もっと根の深い「親密さ=自己喪失」への怖れに由来していることが少なくありません。
かつて──親との関係性のなかで、自分の感情をうまく表現できなかった。


あるいは、親の機嫌をうかがいながら、静かに“いい子”を演じていた。
そうすることでしか愛されなかった、もしくは安心できる居場所がなかった。
そんな記憶が刻まれていると、人は無意識のうちに「関係=我慢すること」「親密さ=自分を消すこと」と学習してしまいます。


また、家庭内で親同士の関係に“健全な親密さ”が欠けていた場合──
たとえば、愛情表現の言葉が交わされない夫婦や、一方が他方に尽くすだけの関係しか見てこなかった場合──

「ふたりで対等に関わりあう」こと自体が、未知の世界に思えてしまうのです。


その結果として、誰かと関係を築くとき、こう感じてしまう。
「このままでは、また“私”がいなくなる」


自己保存からくる防衛

そして、自分の輪郭を守るために、距離を取ってしまう。
それは、自己保存のための立派な防衛です。


けれど、その防衛が強すぎると、「誰かと一緒にいるのに孤独」という新たな苦しみに繋がってしまう。
ほんとうの親密さとは、自己を手放すことではありません。

“自分を保ったまま、誰かと共に在る”という関係性の技術です。


  • 自分と違う意見を持っていても崩れない関係。
  • 沈黙があっても緊張しない時間。
  • 一人でいても、ふたりでいても、持続的に「自分でいられる」感覚。

──それゆえにこそ、結婚に飛び込むことには価値がある。



それは、偶然に与えられるものではなく、対話と試行錯誤の中で少しずつ育てていくものです。


「この人といると、私が私じゃなくなる」と感じたとき、自分に問いかけてみてください。
「それは、相手のせい? それとも、私が“自分を消す”関係しか知らなかっただけ?」


この問いは、あなたが“ふたりでいる自分”を新しく育てなおすための、第一歩になります。
親密さとは、他者に染まることでも、自分を押し通すことでもない。

“自他のあいだ”をていねいに調整していく力です。


それは、子どものころに家庭内で教わらなかった「関係の作法」を、大人になった今、自分で取り戻していく行為でもあるのです。

「共にいながら、自分を生きる」。


婚活とは、そんな関係性を模索しながら、親密感の怖れを超えて、“誰かといるときも、私は私でいられる”という新しい実感を育てていく場なのです。


Ⅴ|婚活で「好きになれない」のは、愛を望んでいる証拠かもしれない


「あの人のこと、どうしても好きになれないんです」
婚活の現場で、何度となく繰り返されるこの言葉。


条件は申し分ない。会話も自然。違和感もないはずなのに、心だけがついてこない。
でも──その「心がついてこない」という感覚の奥に、私たちは、しばしばもうひとつの感情を見落としています。


それは、“愛したいという渇望”です。
「もしこの人を好きになって、裏切られたらどうしよう」
「依存してしまったら、私は壊れてしまうかもしれない」


そんなふうに、自分でも気づかぬうちに、「好きにならない」という防衛線を引いていることがあります。
愛せないのではなく、愛したいのに怖いのです。


「好きになれない」という言葉は、ときに防衛であり、拒否に見えて、実は願望の裏返し。
それは、「本当に大切にしたい人を、大切にできる自分でありたい」という誠実な祈りの形かもしれません。


人は、本当に欲しいものほど、簡単には触れられないと思ってしまいます。
それが壊れたときの喪失が恐ろしいから。

自分には受け取る資格がないと思ってしまうから(自己肯定感が低い)。


過剰な防衛は、愛の渇望の裏返し?

手に入れた瞬間に愛が終わってしまいそうで、だからあらかじめ“好きにならない”ようにして、自分を守っているのです。
この防衛の根には、親との関係や、家庭内で育まれた「愛され方」の学習があります。


たとえば──

  • 親からの愛情に一貫性がなく、親の気分しだいで、気持ちを開いたときに突き放された経験。
  • 愛されるためには“いい子”でなければならなかったという条件付きの愛情体験。
  • 感情や依存を表現すると「重たい」「面倒」と扱われた過去。

そうした記憶があると、愛することそのものが“リスク”になってしまいます。


さらには、「女性は尽くすもの」「恋愛とは自分を捧げるもの」という古い規範が内面化されている場合、「好きになること=自分を失うこと」という感覚にすり替わっていることさえあります。


そのため、「好きになれない」という言葉の奥には、「自分が壊れないまま、愛せるかどうかへの不安」が横たわっているのです。


けれど、そこから問い直すことができます。

  • 「私は、誰かをどんなふうに愛したいと思っているのか?」
  • 「私は、どんな関係のなかで“好き”を感じられるのか?」

その問いに正解はありません。


ただ、その問いを持ち続けることこそが、あなたの“感じる力”と“関わる力”を、もう一度目覚めさせる鍵になるのです。
「好きになれない」は、拒絶のサインではなく、「ほんとうに好きになれる人を、あきらめきれない私」の心のサインかもしれません。


婚活において、恋に落ちることを急ぐ必要はありません。
でも、恋愛感情に落ちない理由だけで、誰かを遠ざける前に、その“好きになれなさ”の内側にあるものを、ひとつだけ見つめてみてください。


“好きになれない私”の奥には、“好きになりたかった私”が、まだ息をひそめて生きているかもしれません。

婚活では「ときめき」より「共鳴」を

Ⅵ|婚活では「ときめき」より「共鳴」を──現実的な愛の始まり方


婚活の相談でよく出てくるのが、こんな言葉です。
「いい人なんです。でも全然、ドキドキしないんですよね……」


まるで“ときめき”が起きないと恋愛が始まらないかのような、その感覚。
でも、私たちはいつから「恋=衝動的な感情」だと信じるようになったのでしょうか?


物語の中では、目が合った瞬間に恋が始まります。
映画では、偶然の出会いが運命に変わります。


そしていつの間にか、私たちも“そうあるべきだ”と感じるようになってしまう。「ときめかない=違う相手」という図式が、無意識に刷り込まれていく。
けれど、婚活における出会いは、もっと静かで、もっと現実的です。


プロフィールを見て、数十分話し、複数人と同時にやりとりするなかで、“燃え上がるような恋”を期待するのは酷かもしれません。
むしろそこに必要なのは、「ときめき」ではなく「共鳴」です。


共鳴とは、無理なく呼吸が合うこと。特別な言葉がなくても、空気が心地よくつながっていること。
相手の言葉に、体の奥が小さく反応すること。


それは、雷鳴のように突然落ちるものではありません。
水が大地に染み込むように、じわじわと育まれるものです。


たとえば──

  • この人と話すと、なぜか安心する。
  • 自分を飾らなくても受け入れられている気がする。
  • 次もまた会ってみたいと、自然に思えた。

それらは、すべて“現実的な愛”の萌芽かもしれません。


刷り込みとしての“ときめき”願望

ただし、ここでもうひとつ大切な視点があります。
「なぜ“共鳴”より“ときめき”にこだわってしまうのか?」という問い。
その背景には、家族関係における“親密さのモデル”や、メディアから内面化したジェンダー規範が深く関わっています。


たとえば──

  • 両親のあいだに会話が少なく、感情的な交流がほとんどなかった。
  • 逆に、過剰に感情的な衝突が繰り返されていた。
  • 子ども時代、「人に迷惑をかけてはいけない」と言われて育ち、心の奥に「自分の感情は抑えるもの」という前提が刷り込まれた。

そのような環境で育つと、親密な関係への距離感が極端になります。


「爆発的なときめき」か「感情のない穏やかさ」か、そのどちらかしか想像できなくなる。
さらに、セクシャリティの刷り込みも影響しています。


「女らしさ=受け身であること」「恋愛とは男性に求められること」といった価値観が無意識に残っていると、“自分の内から湧き上がる安心感”よりも、“強く求められること”に愛の基準を置いてしまいやすくなるのです。


だからこそ、「共鳴」を愛の出発点として見直すことには、自己回復的な意味があります。
恋愛は、「落ちる」ものではなく、「育てていく」ものへ。
ときめきより、“一緒にいて疲れない”という感覚を信じてみてください。


関係は、激情よりも持続可能性によって、真価を問われます。
婚活という場で私たちが求めるべきは、「感情の爆発」ではなく、「感情の持続」なのです。


あなたの心が穏やかであるときこそ、新しい愛のかたちが静かに始まっているのかもしれません。


Ⅶ|「誰かと生きる」準備としての婚活──親密さの再定義


婚活をしていると、ふと心に浮かぶ本音があります。
「結婚したい。でも、誰かとずっと一緒にいる自分が想像できないんです」


そう感じるとき、あなたは何かを怠けているわけではなく、むしろ関係に対して誠実であろうとしているのかもしれません。
関係とは、自分の生活リズム、思考のクセ、沈黙のあり方、怒りの表し方──そういった“私の領域”に、他者がそっと触れてくることです。
それは、喜びと同時に、不安と摩擦も引き寄せます。


だからこそ、「誰かと生きる」には、ある種の準備が必要になります。
その準備とは、“完璧な私”になることではありません。


むしろそれは、「不完全なまま、誰かと共に歩いていこうとする勇気」です。
違いに戸惑い、摩擦に迷いながらも、対話を続ける覚悟。
自立と依存のあいだで、手探りする意志。


こうした「関係の技術」は、家庭の中でどのような関係を見てきたかによって、大きく左右されます。
たとえば──

  • 両親が互いに干渉せず、ただ同居しているような夫婦だった。
  • 一方が常に我慢し、もう一方が支配していた。
  • 親が感情的になりやすく、安心して本音を言えなかった。

このような家庭環境で育つと、「関係=不自由」「親密さ=我慢」という構図がインストールされてしまう。


その息苦しさも幻想かも

その結果、「ずっと一緒にいる」という発想が、そもそも息苦しく感じられるのです。
また、女性であれば、セクシャリティにまつわる刷り込みの影響も見逃せません。


「自立していなければいけない」「誰にも頼らずに生きることが美徳」──そうした理想が内面化されると、無意識に「誰かと生きる」ことに罪悪感や敗北感を抱くようになります。


でも、本来の関係とは、勝ち負けではありません。

「ふたりで、自由を保ちながら、関わり合っている関係」──それこそが、成熟したパートナーシップのかたちです。


それは、相手に頼ってもいいけれど、自分を見失わない関係。
甘えてもいいけれど、責任を放棄しない関係。


それは、誰かに「満たしてもらう」関係ではなく、「ふたりで耕していく」関係です。
婚活とは、「理想の相手を見つける旅」ではなく、「どんなふうに関係をつくっていきたいか」を探す時間でもあります。


あなたが「誰かと生きたい」と思うとき、ほんとうに問うべきなのは、「その関係を自分らしくどう生きるか」なのです。
そしてその問いを、あなたが自分に正直に投げかけられるようになったとき、“結婚”という言葉は、ようやく現実の地平に姿を現しはじめます。


終章|婚活は、内なる親密感の怖れと出会う旅


誰かと関わることが怖い。けれど、誰かと生きていきたい──。

その葛藤のなかにあるあなたは、決してわがままでも臆病でもありません。


むしろ、関係というものに対して深く誠実であろうとする姿勢のあらわれです。
私たちは、過去のどこかで傷ついた記憶を抱えています。


愛されたかったのに、拒まれた経験。本音を伝えたのに、わかってもらえなかった経験。
親との関係性のなかで「感情を表現してはいけない」「甘えたら迷惑をかける」と学んできた記憶。


また、家庭で見てきた親の関係が「支え合う」ものではなく、「どちらかが我慢する」関係だったとしたら──
親密さに対して、私たちは知らず知らずのうちに“疲弊”や“損失”のイメージを抱くようになります。


加えて、性別役割の刷り込みやセクシャリティの抑圧もあります。
「女性は愛される側であるべき」「男は泣くな」「性的な欲望を持つことは恥ずかしいこと」

──そういった無数の声が、心のどこかで「関係を築くこと=自分を消すこと」と等価に結びついてしまっている。


とくにセクシャリティに関して、私たちはしばしば“愛されること”を前提に、自分の欲望や快・不快の感覚を二の次にしてしまいます。
親密な関係におけるセックスや身体的な触れ合いが、どこか“相手のためのもの”になってはいないでしょうか?


それは無意識に、「性的に応えることが愛の証」と刷り込まれた結果かもしれません。


本来のセクシャリティの役割とは?

でも、本来のセクシャリティとは、自分の感受性と身体に根ざした“関係のもう一つの言語”です。
それを見つめ直すことは、関係全体を健やかなものへと変えていく鍵にもなります。


だからこそ、愛そうとすればするほど、関われなくなる。でも、それは“もう愛せない”ということではありません。
それは、“ほんとうに愛せる関係だけを選び取りたい”という祈りのかたちなのです。


婚活とは、他人を条件で選ぶ作業ではなく、自分の内側にある「関係への態度」や「親密さに向き合う姿勢」と再会する場です。
“誰かと関わることが怖い私”もまた、誰かと関わりたいと願っている私なのだと気づくこと。


親密さとは、溶け合うことではありません。
互いの違いを尊重しながら、信頼を築き、距離を調整し続ける日々の営みです。
完璧な関係はありません。


でも、「わかろうとする意志」から、あたたかな現実は始まります。
誰かと生きるという選択は、ゴールではなく、自分の中の怖れと向き合い、関わる力を取り戻していく旅の、はじまりです。


だからこそ、こう問いかけてみてください。
「私は、誰かと“共に在る”ために、どんなふうに変わっていけるだろう?」


その問いを大切に抱きながら歩いていくあなたは、もうすでに、“愛せない人”ではありません。
親密感の怖れを超えて、“愛したいと願っている自分”と、そっと再会した人なのです。

補遺|婚活で“親密さの扉”を開けるための8つの質問と感情ワーク


この章では、“誰かを好きになれない”と感じるあなたにこそ届けたい、静かな問いとかすかな感情の手がかりを集めました。

「正しく」感じる必要も、「好きになろう」と無理をする必要もありません。

ただ、あなたの感受性と関わりの回路を、もう一度やさしく開きなおす時間を持ってみてください。


▶︎ 親密さの扉を開く8つの質問:

  • ①誰かと関わるとき、私が最も怖れていることは何だろう?
  • ②過去のどんな関係が、今の私の距離感をつくっているのだろう?
  • ③「感情が動かない」とき、私は何から自分を守ろうとしているのだろう?
  • ④私にとって「安心できる人」とは、どんな存在?
  • ⑤私が“本当は言いたかったけれど言えなかったこと”は何?
  • ⑥「わかってほしかった」ことを、私は誰に届けたかった?
  • ⑦いま、誰かと“やさしく関わってみたい”という気持ちは、心のどこかに残っていないだろうか?
  • ⑧私は、自分の「性的な感覚」や「快・不快」に対して、どんなイメージや感情を持っているだろう?

これらは、答えを出すための問いではありません。あなたの中にある“声なき気持ち”に、そっと耳を澄ますための問いです。


▶︎ 感情ワーク|「今日の心の天気」を書いてみる:

方法: 夜寝る前に、今日の自分の感情を「天気」にたとえてみる。

例1:朝は“くもり”だったけど、午後に友人と話して“晴れ間”が見えた。

例2:心の一部が“雪”だった。誰にも言えない不安が積もっていた。目的: 感情をジャッジせず、「あるがまま」に見つめる練習。


▶︎ 感情ワーク|「心に響いた小さなことメモ」:

方法: 今日1日の中で、心が少しでも動いた瞬間を思い出して短くメモする。

例1:「レジの人が笑ってくれて、少し救われた」

例2:「道端の花に気づいて、立ち止まった自分に驚いた」

目的: 「感情が動く力」は失われていないことを、そっと思い出す。


▶︎ セクシャリティワーク|「快・不快の境界線を言葉にする」:

方法: セクシャルな場面における自分の“心地よさ”や“いやさ”を、身体の感覚で思い出してみる。

例:触れられて心地よかった瞬間/戸惑ったり無理をしたと感じた瞬間。

目的: 性的な感受性を、他者のためではなく「自分のためのもの」として捉え直す。


これらの問いとワークは、あなたの中に眠っていた“関わる力”を再び呼び起こすためのものです。

あなたは“誰ともつながれない人”ではありません。

ただ、つながる力を一度、静かに溜めていただけなのです。


ゆっくりと。誰かと共に生きるために── まずは、自分とつながることから、始めてみませんか?




【婚活メンター・ひろ】

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もし、あなたの中に少しでも── 「誰かと関わってみたい」 「もう一度、愛を信じてみたい」 そんな気持ちが残っているのなら、どうか一人で抱え込まないでください。

私たちは、夫婦で婚活メンタリングと心理カウンセリングを行っています。

この論考で描いてきたような──

「心が動かない」「恋愛感情が湧かない」「好きになれない」「親密さが怖い」

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そうした想いに、丁寧に寄り添いながら、一緒にやわらかくほどいていく時間を大切にしています。


・自分の本音を、ゆっくり話してみたい方へ

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あなたが、“愛したいと願う気持ち”を取り戻すその瞬間に、 そっと寄り添える存在でありたいと、私たちは心から願っています。