ヒロの婚活心理学

婚活心理学Vol.22『孤独の本質』から考える──つながる勇気としての結婚

寝転がって強く手を結ぶカップル

はじめに|つながりを避ける時代に、「ふたりで生きること」の意味を問う


私たちは、これほど多くの人々に囲まれて生活しながら、かつてないほどの孤独を感じている。
SNSでつながっていればいるほど、リアルな人間関係に触れる機会は減り、深夜のタイムラインの向こうで誰かの幸せを眺めながら、自分だけが取り残されたような気がする──そんな感覚を抱いたことがある婚活者は多いのではないだろうか。


アメリカで公衆衛生の最高責任者を務めた医師、ヴィヴェック・H・マーシーは、孤独を「見過ごされてきた健康課題」だと明言する。
喫煙や肥満に匹敵するほど、孤独は人間の身体と心に深刻な影響を与えるのだと。

彼はその著書『孤独の本質 つながりの力』の中で、孤独をただの気分や性格の問題と捉えるのではなく、社会全体が抱える“構造的な病”として捉え直す必要があると訴えている。


この視点は、日本の若い世代が直面している「結婚しない」「恋愛しない」風潮を読み解くための強力なレンズになる。結婚をしないことは、自由の表現でもある。

しかし、その自由の裏側で、「誰かと一緒にいること」への恐れ、「深く関わること」への疲弊、そして「孤独を語れない社会」が密かに進行してはいないか。


この論考では、マーシーの研究と考察を手がかりに、孤独と結婚の関係を再考してみたい。

結婚とは、つながることの最も濃密な形式であり、同時に最も困難な関係でもある。

だが同時に──だからこそ、そこにしか生まれない「癒し」や「共鳴」も、またあるのだ。


孤独を“個人の人格”に帰するのではなく、“社会的な構造”として見つめ直すとき、結婚という選択肢は、義務でも、制度でもなく、「つながるためのひとつの方法」として、再び私たちの前に立ち上がるかもしれない。


これは、結婚を賛美する物語ではない。むしろ、孤独を正面から見据えながら、「誰かと生きることの意味」を、もう一度手探りしてみる物語である。



深刻な表情で机を見つめる男性

婚活心理学Lesson1|孤独は“個人の問題”ではない



日本社会が「冷たい社会」だと指摘されるゆえん


「孤独」と聞いて、あなたはどんな情景を思い浮かべるだろうか。
誰もいない夜の部屋で、一人きりでカップラーメンを啜っている姿? 同僚や先輩からの食事会を断ったあとの空白の時間?あるいは、大勢に囲まれていながらも、心だけがどこか冷めたままでいる瞬間かもしれない。


いずれにせよ、日本では長らく、「孤独」は“ぼっち”に示されるように、揶揄や憐憫の対象とされてきた。
友達を作ればいい、自分から人と関わればいい、もっと社交的にならないと──そのような“前向きなアドバイス”の裏側には、孤独を感じることそのものが、どこか「弱さ」や「劣等性」として見られてしまう価値観があった。


だがマーシーは言う。孤独とは、決して“個人のせい”ではない、と。


彼が指摘するのは、孤独という状態が「身体的・生理的な危機反応」として私たちに表れるという事実である。
飢えや渇きが、私たちに生命の危機を知らせるように、孤独という感覚もまた、「このままでは危ない」という“つながりの欠乏”を知らせる信号なのだ。


実際、慢性的な孤独は、心臓病や脳卒中、免疫力の低下、うつや不安障害のリスクを高めることがわかっている。
つまり孤独は、医学的にも「身体をむしばむ病」と言える。そしてその病は、個人の意思や努力ではどうにもならない環境や社会構造によって、より深刻化するのだ。


たとえば、日本の職場文化における“個の分断”、都市部における“共同体の希薄化”、家族という単位の縮小──これらはすべて、個人が孤独になりやすい土壌を作っている。
孤独はもはや「性格の問題」ではなく、「社会的な設計ミス」と言っていい。


日本の職場文化における“個の分断”
 → ハラスメントへの警戒感、プライバシー保護、コロナ禍以降のテレワークの増加などによって、かつてないほど会社内での人間関係が希薄化し、形式的・効率重視になりすぎている。雑談やプライベートな関わりが減り、「会社に属していても孤独」という状態が生まれている。


都市部における“共同体の希薄化”
 → 地域社会のつながりが弱くなり、近所付き合い・地縁・地域の支え合いが機能しづらくなっている。物理的には隣に人がいても、心理的には「知らない人」になっている。


家族という単位の縮小
 → 単身世帯の増加、晩婚・非婚化、核家族化の進行により、日常的に誰かと暮らす経験が減少。家族と暮らしていたとしても、急速な価値観の多様化で世代間の分断がある。結果として、「家に帰ってもひとり」という孤独が常態化している。


若者の間で「人と深く関わるのがしんどい」「婚活が面倒」といった声が広がっているのも、こうした孤独の構造が無意識に影響していると考えられる。
自分を守るために関係を断つ。
しかし、関係を断つことで、さらに孤独になる──そんな負のループに、私たちは気づかぬうちに巻き込まれている。


だからこそ、孤独を個人の性格や努力の問題にすり替えてはいけない。
それは、自分を責めることにもつながるし、他者を見捨てることにもつながるからだ。


孤独は、「誰かとつながることが怖い」と思ってしまう時代の、最も素直な叫びである。

そしてそれは、決して一人きりで抱えるべきものではない。



横断歩道を渡る人々の黒い影

婚活心理学Lesson2|“つながり”の喪失と、若者の結婚回避


「人といると疲れる」「一人のほうが気楽」──そんな言葉が、ごく自然に語られるようになったのはいつからだろう。


確かに、誰かと深く関わることには、エネルギーがいる。
予定を合わせ、感情を読み取り、誤解を解き、傷つけ合わないよう気を遣う。
それよりも、一人でNetflixを観ながら過ごす週末の方が、ずっと簡単で安全だ。


だがその“簡単さ”が、実は私たちの人間関係の免疫力を、じわじわと蝕んでいるとしたら?


現代の若者たちは、「恋愛が面倒」「結婚に魅力を感じない」と口にする。
その背景には、ただ個人主義が強まったという単純な理由ではなく、「関係性そのものがしんどい」という深層の疲労感がある。


SNSはつながりの手段であると同時に、比較と監視の道具でもある。
「あの子は彼氏がいて幸せそう」「結婚して子どもがいる」──そんな“幸福のスクリーンショット”が、他人との比較を通じて、自分の孤独感を増幅させる。


マーシーが指摘するように、現代人が感じている孤独の多くは、「物理的な孤立」ではなく、「心理的な切断」から来ている。
つながっているはずなのに、通じ合っていない。


常に誰かの発信を受け取りながら、自分の声は誰にも届いていない──そんな状態が、若者たちに「関係=疲れるもの」という心象を与えているのだ。


加えて、現代社会では“成功した結婚”のハードルも上がっている。
恋愛結婚、価値観の一致、経済的安定、子育ての協力、そして互いの自己実現の応援者であること──それらを全て満たさなければ“失敗”とされるような空気とプレッシャーが、婚活に対する若い世代の腰をさらに重くしている。


結果、「誰かと深く関わるくらいなら、最初からひとりでいたほうがいい」という選択が、最も合理的な判断として受け入れられていく。


だが、その“合理”の先に待っているのは、本当に“幸福”なのだろうか?

恋愛や結婚に疲れたのではない。

私たちは、「うまくつながれないこと」に疲れているのだ。


では、“うまくつながる”とは何か? それは、完璧に分かり合えることではない。

むしろ、違いがあっても対話が続けられる関係。


以下のような4つの要素に集約されるだろう:


  • ⑴ 安心と信頼がベースにある関係
    無理せず自分でいられ、「拒絶されない」という感覚がある。
  • ⑵ 相互的な応答がある関係
    話しかけたら返ってくる。感情が受け止められたり、共感されたりする。
  • ⑶ 小さな感謝と気づかいが交わされている関係
    「ありがとう」「大丈夫?」などのささやかな言葉、目を合わせる、声をかけるといった“存在の承認”。
  • ⑷ 役割や義務ではなく、“選んで関わっている”関係
    習慣や責任ではなく、「この人といたい」という気持ちがベースにある。

つまり、“うまくつながる”とは、「完全に理解し合うこと」ではなく、「理解し合おうとする姿勢」が持続する意欲なのだ。



路地裏でポケットに手を入れて佇む女性

婚活心理学Lesson3|“ひとり”が楽なのか、怖いのか?



「一人の方が気楽」「誰にも縛られずに自由に生きたい」──それは、現代社会に生きる私たちがしばしば口にする“もっともらしい言葉”だ。


だが、その“気楽さ”は、果たして本当に自由から生まれているのだろうか。
それどころか、いかにも「自由を謳歌しています」と言わんばかりに幸福そうな人に、私は出会ったことがない。
それは、過去に傷ついた経験や、拒絶への恐れからくる、静かな“あきらめ”なのではないか。


ヴィヴェック・H・マーシーは、孤独を「飢えや渇きと同じ、生存に関わる身体的な欲求」であると明言する。
つまり、誰かと“つながりたい”という気持ちは、人間の本能であり、生理的に正当なものなのだ。


ところが、私たちの社会はその欲求に対して、しばしば冷淡だ。
「誰かに頼るのは甘え」「依存するのは未熟」──そういった声が、直接的にも間接的にも、つながりたいと願う心を封じていく。


ここでいう「社会」とは、特定の誰かを指すわけではない。
それは、私たち全員が知らず知らずのうちに内面化してきた価値観、つまり「一人で立てることが自立であり美徳だ」という文化的通念の集合体だ。


幼い頃から、「人に迷惑をかけるな」「ひとりでやれ」「弱音を吐くな」と教えられ、成長する過程で他者に期待することや感情を預けることを慎むように訓練されてきた私たちは、気づかぬうちに“つながる力”を削がれている。


恋愛や結婚、婚活においても同様だ。
「自立した人同士が付き合うのが理想」「まずは自分を満たしてから」といった言説が、「つながりたい」と思う本能的な衝動を過剰に理性化し、結果として“誰かに寄りかかること”そのものを悪と見なす空気をつくっている。


だからこそ、「ひとりのほうがいい」と思うとき、その背景には、実は「誰かとつながることが怖い」という深い層の感情が潜んでいるのかもしれない。

婚活の現場では、人と”自然な形で”親密になれない若者が実に多い。
男女を問わずだ。


親密さには、リスクがある。
自分の不完全さをさらけ出さねばならず、相手を完全にはコントロールできないという現実を受け入れる必要がある。

それでも信頼する。
それでも共にいる。それが関係性というものだ。


「傷ついてもいい」「裏切られても、自分を信じる」──そうした覚悟とともにしか、本当の意味での親密なつながりは育たない。


だが、それは一朝一夕で築けるものではない。だからこそ、私たちの多くは“関係を築く”こと自体を避けるようになる。
ひとりのほうが、ラクで、効率的で、裏切られないから。


しかし、その“効率”の果てに待っているのは、豊かさではなく、孤立である。

恋愛が難しくなったのではない。

私たちの社会は、「恋愛をする力」「誰かを愛する力」そのものを失いつつあるのだ。


“ひとり”が楽だと信じたいその奥にあるのは、ほんとうは“誰かといたい”という、声なき願いかもしれない。

そう言えるのはなぜか? 

それは、人とつながりたいという感情が、単なる気分ではなく、飢えや渇きと同じ“生存欲求”だからだ。
マーシーの指摘するように、孤独は身体が発する危険信号であり、つながりは人間にとって不可欠な栄養でもある。


また、「ひとりが楽」と語る人の多くが、実は過去の傷つき体験や対人不信を抱えているという臨床観察もある。
「つながりたいけれど、傷つきたくない」──そのジレンマの果てに、“合理的な孤独”が選ばれているケースも少なくない。


つまり、“ひとりでいる自由”の影には、誰にも知られずしまい込まれた「つながりたい」欲望が、静かに息をひそめているのだ。

そして今、その願いに向き合う勇気と根気が、静かに、けれど確実に、社会全体で問われている。



二人で料理をするカップル

婚活心理学Lesson4|結婚とは、孤独と希望の“共同創造”である



「結婚は人生の墓場」と言われることがある。
だが、もしそれが“孤独の墓場”──つまり、孤独という苦しみを終わらせる場所であるならば、それはむしろ祝福されるべきことなのではないだろうか?


マーシーは、孤独に対処する手段として「質の高い人間関係」を重視する。
質とは、単に一緒に過ごす時間の長さではなく、「安全」「信頼」「共感」「応答性」がある関係性を意味する。
私はこれに「対等さ」を加えたい。

これは、まさに現代の健全なパートナーシップに求められる条件でもある。


私たちは、結婚を「幸せの完成形」だと誤解してはいないか。
理想的なパートナーと出会えさえすれば、すべてがうまくいく、人生は自動的に満たされる──そんな幻想は、かえって婚活者を“孤独からの逃避”に追いやっている。


だが、結婚とはそもそも「孤独にならないための契約」ではない。
むしろ「孤独と共に生きるための同盟関係」なのだ。


誰しも、「死すべき存在」として人生のある瞬間には孤独を感じる。
それは人間の条件であり、相手がいても、家族がいても、その感覚はなくならない。
だからこそ、その孤独を「共有できる人」の存在が、救いになる。


マーシーは、孤独を癒す力として「日常のやさしさ」と「小さな応答性」を挙げている。
朝の「おはよう」、夜の「おやすみ」、ふとしたときの「ありがとう」。
そうした些細なふれあいの蓄積が、人を回復させる。


結婚は、そうした日常の交換を“制度化する”営みだと言えるかもしれない。

もちろん、すべての結婚がそのような関係を育めるわけではないし、制度そのものが万能なわけでも決してない。


だが、「ふたりでしか立ち向かえない孤独がある」という真実を、私たちはもっと真剣に見つめ直してもいいのではないか。

繰り返しが、愛とは感情ではなく、応答である。

それは、孤独という課題に対して、「あなたとなら、向き合える」と手を差し出す行為だ。

結婚は、その最たるかたちなのかもしれない。


そしてもうひとつ、私たちが見落としがちなことがある。
それは、結婚とは「孤独に立ち向かうための共闘関係」であると同時に、 「希望を分かち合うための共同創造」でもある、ということだ。


人生は不確かで、未来は読めない。
だが、誰かと共に歩むとき、そこにだけ生まれる“意味の地平”がある。

それは、一人では抱えきれない希望を、ふたりの器で受け止めようとする営み。

希望とは、必ずしも楽観ではない。
それは、傷つきやすさや失望を知った上で、それでも明日に手を伸ばす態度のことだ。

そして、その希望の重みもまた、ひとりでは持ちきれないときがある。

だからこそ、誰かと手を取り合いながら「一緒に信じてみよう」と言える関係には、癒し以上の効果が宿る。


結婚とは、孤独の共有だけでなく、未来への希望を“共に信じる力”を持った同盟なのかもしれない。

ふたりでつくる日常とは、単なる生活の積み重ねではない。
それは、目の前の不確かさを手探りで越えていく、希望のエンジンである。


どちらか一方の理想ではなく、ふたりで練り直す価値観。
どちらか一方の夢ではなく、ふたりで育てていく展望。


そこには、“つながり”の先にあるもうひとつの実践、「ともに未来をつくる」という関係性の可能性が眠っている。

つまり結婚とは、過去を癒す場であると同時に、未来を描き直す”アトリエ”でもあるのだ。



エレベーター前で愛を告白する男性

婚活心理学Lesson5|「誰かと生きる」ことへの小さな勇気



孤独を癒すのは、劇的な愛の物語ではない。
日常の中で交わされる、小さな関与(貢献)の積み重ねだ。


「誰かと生きる」とは、すなわち「誰かの世界に関心を向ける」ことである。
そして、それには想像以上の勇気がいる。


好きなもの、嫌いなもの、得意なこと、苦手なこと、朝の気分、帰宅後の沈黙──それらを見つめ、受け取り、関わり続けることは、たやすいことではない。

けれど、そこにこそ「関係の熱量」が宿る。


マーシーは、人とのつながりを取り戻すために必要なのは、「深い共感」ではなく「小さな思いやりと応答」だと言う。

無理に理解しようとしなくてもいい。
ただ、そばにいること。見守ること。
必要なときに、声をかけること。


この「関係の熱量」とは、単なるやりとりの頻度や内容の濃さではない。
感情の微細な動きや、小さな応答に込められた“ぬくもり”のことだ。

たとえば、黙って隣に座ってくれること。
ふとした沈黙を責めないまなざし。

言葉にはならないけれど、「ここにいていいよ」と伝わってくる気配──そういった非言語的なやさしさが、関係に“熱量”をもたらす。


それは、安心と信頼の気候のようなもの。
すぐに数値化はできないが、人はそれを確かに感じ取りながら生きている。


それだけで、人は少しだけ“ひとりではない”と思えるようになる。

恋愛や結婚を考えるとき、多くの人が「自分を理解してくれる人」「完璧に分かり合える人」を探してしまう。

それは婚活でも例外ではない。

けれど本当に必要なのは、「分からなくても、ここにいるよ」と言ってくれる人ではないか。

それは、パートナーに限らない。友人でも、同僚でも、あるいはカウンセラーでもいい。
大切なのは、「自分が誰かの心の地図に存在している」と感じられることなのだ。


恋愛や結婚に限らず、つながりの再構築は、社会を静かに癒す。

孤独という深い井戸から、声を届け、受け取る。
その最小単位が、人と人との関係だ(アドラーは「人が2人いれば社会だ」と言った)。


そして、その始まりはいつも、ほんの小さな勇気から始まる。


たとえば、好きな人に「会いたい」と伝えること。
たとえば、今日の自分を「つらかった」と言えること。

たとえば、「あなたとなら、生きていけるかもしれない」と思えること。


それは、現代人に与えられた、もっとも誠実で、もっとも勇敢な可能性のひとつだ。
文明が高度化すればするほど、生身の人間自身は退化し、野性を失っていく。

同時に、それは最も怖いことでもある。
勇気を出して想いを伝えたのに、相手に断られたり、拒否されたりしたときの痛みは深く、自己否定に直結してしまうこともある。


では、その恐れとどう向き合えばいいのか。

大切なのは、相手の反応によって自分の価値が決まるわけではない、ということを知ることだ。
関係を求めたあなたの行為そのものが、すでに成熟した愛の始まりなのだ。

拒絶されたとしても、それはあなたの勇気が無意味だったということではない。
それは、あなたが自分の内なる孤独と向き合い、つながろうとした証拠である。


もちろん、その姿勢が「人生のどこかでかならず誰かの心に届く」という保証は、どこにもない。
だが、それでも「届くかもしれない」という可能性のために、自分の感受性を信じることはできる。

愛とは、確実な見返りを求める行為ではない。
むしろ、不確かな関係に向かって、希望を込めて差し出す、贈与(貢献)のようなものだ。


私たちができるのは、誰かに届くことを信じながら、自分自身に恥じないあり方を選び続けることだけだ。
その姿勢そのものが、すでに孤独に抗うひとつの光なのである。


“断られたから傷ついた”のではない。
“誰かとつながろうとするほど、本気だった”からこそ、傷ついたのだ。


だからこそ、その痛みすらも、自分の感受性と誠実さの証として、丁寧に抱えて生きていこう。
なぜなら、その言葉には過去をゆるし、未来に希望を託す意志が含まれているからだ。

それはただの依存でも、幻想でもない。
自分の未熟さや恐れを抱えたままでも、「誰かと一緒に生きる」という冒険を選び取る決断である。
それは、もっとも人間的で、もっとも創造的な“つながり”の始まりなのだ。



片手に小さなカゴを持ち、彼と腕を組む女性

婚活心理学Lesson6|結び:結婚は、つながり直すための一つの選択


私たちは、あまりに長く、「孤独は自分の弱さの証だ」と思い込まされてきた。

誰にも頼らず、自立し、感情を抑え、ひとりで立っていられること──それが成熟した大人の条件であるかのように。


だが、孤独は個人の弱さではなく、関係の欠如がもたらす“社会的な痛み”である。


ヴィヴェック・H・マーシーが指摘するように、それは放置されてきた公衆衛生の危機であり、今や新たなつながりのかたちを模索することが、社会全体の課題となっている。


そしてその処方箋は、意外なほどに根源的で、静かな勇気に満ちたものだ。

それは、「関係を恐れずに、もう一度選びなおすこと」である。


結婚は、そして婚活は、そのためのひとつの“場”になりうる。


制度でもゴールでもなく、「つながり直すためのプロトタイプ」──それが、結婚の新しい定義かもしれない。

この“プロトタイプ”は、完成された理想形ではない。
「人と深くつながるとはどういうことか」を、ふたりで探り続ける関係性の“創造的な原型”である。


結婚は、固定された愛の形式ではなく、日々更新される「共生のアトリエ」なのだ。


それはまさに、社会心理学者エーリッヒ・フロムが語ったような「愛は技術である(The Art of Loving)」という考えを想起させる。

愛は感情だというのは、現代では素朴すぎる。

愛は感情ではなく、“技”であり、“アート”である──ただ相手を想うことではなく、その想いを日々実践し、手入れし、共に育てていく行為なのだ。


結婚とは、そのアートの作業場であり、ふたりで孤独と希望を素材にしながら、未来という作品を編んでいく共同制作の空間である。

そこには、孤独を癒し、希望をともに創るという、二重の役割がある。


お互いの不完全さを引き受けながら、それでも共に生きようとする覚悟。
孤独という避けられない現実を、「ふたりで迎えに行く」という選択。


そして、未来を一緒に信じてみようとする希望の持ち寄り。

この時代において、それはけっして当たり前でも、古臭い価値観でもない。


むしろ、それは最も先鋭的で、もっとも創造的で、もっとも誠実な人間的行為なのではないか。


だから、もしあなたが今、「共に誰かと生きていく」ことを少しでも考えているのなら──

それは、弱さでも逃げでもない。

それは、あなたの中にまだ“誰か”──いや、
自分以外の「他者」と交わろうとする可能性を信じてみたいという希望が残っている証なのだ。
それは、人生や関係性、人間存在そのものへの再信頼であり、未来への微かな光を諦めていないという、内なる宣言でもある。


そしてその希望こそが、関係の未来を形づくる、最初のトーチ(松明)であり、 私たちを再び「孤独ではない世界」へ導く力になる。



小さな補遺:



ヴィヴェック・H・マーシーとは誰か?

ヴィヴェック・H・マーシー(Vivek H. Murthy)は、アメリカの医師であり、同国の公衆衛生の最高責任者である「サージョン・ジェネラル(Surgeon General)」を2度務めた人物だ。彼は、孤独を現代の公衆衛生上の重大な課題と位置づけ、その解決に取り組んでいる。


経歴と背景:

  • 生年月日・出身地1977年7月10日、イギリス・ハダースフィールド生まれ。両親はインド・カルナータカ州出身で、彼が3歳のときにアメリカ・マイアミへ移住した。

  • 学歴ハーバード大学で生化学を専攻し、1997年に優等で卒業。その後、イェール大学で医学博士(MD)と経営学修士(MBA)を取得した。

  • 公職歴2014年、バラク・オバマ大統領により第19代サージョン・ジェネラルに任命され、2017年まで務めた。その後、2021年にジョー・バイデン大統領の下で第21代サージョン・ジェネラルとして再任され、2025年1月まで在任した。

著書『孤独の本質 つながりの力』:

マーシー氏の著書『Together: The Healing Power of Human Connection in a Sometimes Lonely World』(邦題:『孤独の本質 つながりの力――見過ごされてきた「健康課題」を解き明かす』)は、孤独が心身の健康に与える深刻な影響を明らかにし、社会的つながりの重要性を説いた作品。彼は、孤独を喫煙や肥満に匹敵する健康リスクと捉え、個人と社会が協力してこの問題に取り組む必要性を強調している。


公衆衛生における孤独の位置づけ:

マーシー氏は、孤独を「見過ごされてきた健康課題」として位置づけ、その影響が依存症、うつ病、不安障害、さらには暴力や薬物乱用など多岐にわたると指摘している。彼は、孤独が社会全体に及ぼす影響を軽視すべきでないとし、政策レベルでの対応を提唱している。



パーソナルな視点と提言:

自身も孤独を経験したことがあるマーシー氏は、孤独が生理的な警告信号であり、飢えや渇きと同様に人間の基本的な欲求であると述べている。彼は、日常生活の中での小さな親切や対面での交流、瞑想の実践などを通じて、孤独の解消と心の健康の回復を図ることを提案している。


今後の展望:

2025年1月にサージョン・ジェネラルの任を終えたマーシー氏は、今後も人間関係の再構築やコミュニティの強化に注力していく意向を示している。

彼は、子どもたちの純粋な交流からインスピレーションを得て、社会全体がより思いやりとつながりに満ちた方向へ進むことを目指している。


マーシー氏の活動は、個人の幸福と社会全体の健康を結びつける新たな視点を提供している。彼の提唱する「つながりの力」は、現代社会における孤独の解消と心の健康の促進に向けた重要な指針となるだろう。



(婚活メンター・ひろ)




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