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「血液型性格診断」という呪縛 婚活心理学Vol.19──婚活リテラシーを身につけよう!

「血液型性格診断」という呪縛

はじめに|なぜ私たちは、血液型と性格を結びつけてしまうのか?

「A型は几帳面」「B型はマイペース」──誰もが一度は耳にしたことがあるこのフレーズ。

日常会話で交わされるこれらの言葉は、軽い冗談や共感のネタとして使われる一方で、私たちの「他者理解」の感覚を静かに侵食していく。


なぜなら、それは「人間をわかりやすく説明したい」「複雑な感情や性格を一言でラベル化したい」という欲望に応えてくれるからだ。

わからないままに関わることの不安、矛盾を抱えた他者と向き合うことの困難──それらを一気に回避できるのが、「血液型性格診断」という単純な物語なのだ。


だが、もし婚活という“真剣な出会い”の場においてまで、そのようなラベルが優先されているとしたら?

そして実際、大手結婚支援サイトのプロフィール欄には、血液型の記入が当然のように求められ、出会いの選別にも影響している。


──そのとき、私たちは何を手に入れ、何を失っているのだろうか?


本論考では、この「血液型と性格」信仰の背景にある構造を解き明かしながら、それが婚活という出会いの場でどのような影響を与えているのかを検証する。

そこには、“コスパ婚活”の風潮や、“思考停止”の誘惑、そして婚活における“リテラシー(批判的読解力)”の欠如という問題が、複雑に絡み合っている。


そしてその過程で見えてくるのは、単なる迷信や偏見の問題ではない。それを信じ続け、広め続けることは、事実に基づかない情報──つまり誤情報の拡散に、自ら加担してしまっているという、倫理的かつコンプライアンス上の重大な課題でもある。

「他者とどう関わるか」「どんな関係性を育てたいのか」──そんな問いに直結する、私たち自身の“生き方の選択”そのものなのだ。

第1章|血液型性格診断──どこから来たのか?

たとえば、たった一言で相手の性格を理解できるとしたら?

「A型は几帳面」「B型はマイペース」──そんな魔法のような分類に、私たちはどれだけ安堵し、どれだけ頼ってきただろう。

けれど、その“わかったつもり”は、本当に誰かと出会うための扉を、むしろ閉じてしまってはいないだろうか。


「A型は几帳面」「B型はマイペース」──この“血液型と性格”の結びつきが、なぜこれほど日本社会に浸透してきたのか。

その起源は、1920年代の仮説にさかのぼる。提唱者の古川竹二は、世界的に注目されたばかりの──血液型の発見は1900年、現在の名称に統一されたのは1928年──血液型と気質の関係に関心を持ち、教育現場での応用を模索した。

(古川の論文発表は1927年、だが、この仮説は学術的には根拠に乏しく、その後しばらく忘れ去られる。1933年に日本法医学会によって正式に否定された。)


再び注目を浴びたのは1970年代。作家・能見正比古の著書『血液型でわかる相性』(1971年)が大ヒットし、類書が多数刊行され、“血液型性格診断”は一気にメディアに拡散した。

TVのバラエティ番組や雑誌がブームに火をつけ、「血液型で性格がわかる」「相性がわかる」という言説が娯楽として広まり、やがて日常の中にすっかり溶け込んでいった。


しかしながら、血液型と性格の関係を示す明確な科学的根拠は、今に至るまで見つかっていない。

たとえば、日本人ではよく引用される松井豊氏の研究論文『血液型による性格の相違に関する統計的検討』(1991)、縄田健悟氏の論文『血液型と性格の無関連性──日本と米国の大規模社会調査を用いた実証的論拠』などの複数の研究がある。

また、その後のカナダ、オーストラリア、台湾、日本など複数の追試やメタ分析でも、「有意な関連性は見られない」という結果が一貫して示されている。


だが、時代が変わってもなお、この言説はたびたびリバイバルされている。

その象徴的な出来事が、2007年に発売された書籍『B型 自分の説明書』の大ヒットだった。続いてA型、AB型、O型と展開され、翌年以降、シリーズ累計480万部を突破する社会現象にまで発展した。


こうして血液型性格診断は、若者世代のあいだに“共通言語”のように広まり、軽いコミュニケーションを促進する一方で、「自分はこういう人間なんだ」「あの人とは合わない気がする」といった思考様式を、信仰に近いかたちで内面化させていった。

科学的根拠が希薄であるにもかかわらず、“みんなが信じている”という空気が、そのまま信憑性にすり替えられてしまった。


それが今なお私たちの思考と行動に深く根を張っていることを思えば、このブームは単なる一過性の流行ではなく、むしろ“信仰”として内面化されたぶん、より根深く、より罪深いものだったのではないだろうか。


では、なぜ私たちはそこまでして血液型と性格の結びつきを信じてしまうのか?

そこには、「人間をひと目で理解したい」という衝動と、「わからない他者に意味を与えたい」という不安の心理がある。


血液型は、他者を“わかりやすくする”ためのラベルだ。複雑でつかみどころのない他人を、単純な分類に押し込めて安心したい──そんな思いが、無意識のうちに働いている。教育現場で「リテラシー(批判的読解力)」が注目される前の世代だったことも関係している。


また、「同調圧力」や「空気を読む文化」が強い日本では、分類に従うことが安心感を生み、「自分らしさ」より「期待される役割」に沿うことが優先されやすい土壌もある。


だが、こうした言説を無批判に受け入れ続けることには、もうひとつの問題がある。

──それは、誤情報を自ら拡散するという社会的な加担だ。科学的な裏付けがないにもかかわらず、「みんなが信じているから」という理由だけで広まり続ける言説に乗ってしまえば、他者を不当に分類し、可能性を奪う側に立ってしまう。


そのことに、私たちはもっと敏感であるべきではないだろうか。ラベルで人を測るという行為が、どのようにして「出会い」を歪めていくのか。

次章では、「血液型性格診断」神話が婚活という選別の現場に持ち込まれたとき、どのような影響を及ぼしているのかを、より具体的に見ていく。



第2章|血液型神話がもたらす婚活への影響

「A型はしっかり者」「O型はおおらか」── こうした印象が、いつの間にか“出会い”の入り口に潜り込んでいる。

初対面で相手の血液型を尋ね、「ああ、やっぱり」と頷く。

プロフィール欄にある血液型の記載を見て、「合いそう」「無理かも」と直感する。

──それは果たして、相手を知ろうとしているのだろうか? それとも、自分の安心のために、“他者”という複雑さを手早く処理しようとしているのだろうか?


血液型性格診断が婚活の現場に持ち込まれたとき、それはたんなる話のネタではなく、“出会いの選別ツール”として機能しはじめる。

たとえば「B型は自由すぎて信用できない」──そんな刷り込みが、出会いの芽を摘む。

「AB型は何を考えているのかわからない」──そんな偏見が、理解しようとする努力を止めてしまう。


ラベルが先にあり、相手が後からついてくる。そんな順序が固定されたとき、関係性の深まりは止まってしまう。

ここにあるのは、分類の誘惑だ。人間を「わかるもの」にしてしまいたいという、思考のショートカット。


だがその過程は、結果的に誤情報の拡散に加担することにもなる。科学的根拠がないと知っていながら、それでも使い続ける──「みんなやっているから」「それっぽいから」という空気に流されて。


そして忘れてはならないのは、ラベリングの対象は他者だけではないということだ。

私たちは同時に、自分自身もまたそのラベルで読まれ、誤解され、すれ違いの原因となる“説明された存在”と化してしまう。

血液型という記号に縛られることで、本来の個性や関係性の可能性が見失われてしまうのだ。


もし私たちが、この神話を無批判に受け入れ続けるならば、それは「知らずに誰かを傷つける」という構造的な加害の一部を担うことにもなりかねない。

婚活とは、本来、他者と向き合い、関係を育てる営みだ。

条件ではなく、プロセスのなかで“わかり合っていくこと”にこそ価値がある。


──だが、血液型というラベルは、その“育つ余白”を奪ってしまう。

選びやすく、断りやすくなる。だがその選別の基準が、誤った情報に基づいていたとしたら?

分類の快楽に身を委ねることは、関係をつくる力そのものを手放すことでもある。


想像してみてほしい。A型、B型、O型、AB型というラベルを貼られたレプリカント同士が、無機質な光に照らされた空間で“出会う”光景を。

──まるで映画『ブレードランナー』の一場面のように、未来的で、シュールで、どこか滑稽だ。


感情を模倣する彼らは、事前に与えられた説明書を手に、お互いの「傾向」や「注意点」を確認し合う。そこには本当の関係性はなく、ただプログラム通りの接続と切断があるだけだ。


婚活パーティーの現場が、いまやこうした“情報処理ゲーム”のような場になっているとしたら?

それは成熟した大人の出会いというより、ラベルと役割を交換し合う子どもたちの遊戯空間に近い。

出会いの偶然性は失われ、「わかりやすさ」と「選びやすさ」だけが支配する──そんな空気が、現代の婚活には漂っている。


だが、そもそもなぜ──これほどまでに科学的根拠の乏しい神話を、私たちは捨てきれないのだろうか?

血液型と性格。この組み合わせは、偶然性に満ちた“出会い”という出来事を、あらかじめ整理・説明できるものとして提示してくれる。


わからない相手を、すぐに“既視感”ある枠に落とし込めるという安心感。未来を予測できたかのようなコントロール感。そして、何より「運命」というロマンを装った選別の正当化。


だが、もっと深いところで、それは“不安定な自己”を仮固定するための、簡易なアイデンティティ装置になっているのではないか。

自分はB型だからこうなんだ。彼はA型だからわかりあえない。


そう言い切れることの心地よさは、逆説的に、自分がまだ“流動的で、定まらない存在”であることの不安の裏返しでもある。

だからこそ、特に若い世代は、この神話を「信じる」のではなく、「拠り所として使っている」のかもしれない。


では、どうすればよいのか?この問いは、そのまま次章のテーマへとつながっていく。

「理想の相手」ではなく、「わからない誰か」と、どのように向き合うのか? 相手をラベルで“わかったつもり”にならず、未知とともに歩むことは、本当に可能なのか?



まず必要なのは、信じてしまっている自分自身を一度疑ってみることだ。出会いとは、本来、“未知”と出会うこと。最初から答えが用意されている関係なんて、本当はどこにも存在しない。

血液型と性格というフィルターを通さずに、相手の言葉を聞き、表情を読み、矛盾に耐えながら、関係を育てていく。

──そんな不器用で遠回りな出会いこそが、愛への始まりの出発点なのではないか。


次章では、その“思考停止”の誘惑を超えて、関係性をどう成熟させていくかを考えていく。

第3章|なぜ私たちは「単純な物語」を求めてしまうのか?

私たちは、理解したいと願う。だが、本当に理解するとは、恐ろしく手間のかかる営みだ。

相手の言葉を拾い、行間を読む。沈黙の奥にあるものを想像し、矛盾や揺らぎを抱えたまま、なお手を伸ばし続けること。


それは、時間も、勇気も、裏切られてなお関わろうとする意志も必要とする。──なぜなら、人間は本質的に矛盾した存在だからだ。

完璧な相手など存在しない。誰しも弱さや自己矛盾を抱えており、期待どおりに応えてくれる保証などない。


それでもなお、失望を引き受け、相手を知ろうとする努力を重ねるとき、関係は単なる取引を超えた、本物の絆へと育っていく。だからこそ、私たちは、できることなら理解のプロセスを省略したくなる。


そこに、「血液型」という簡単な物語が介入する。

──A型だから几帳面に違いない。 ──B型だからマイペースに違いない。


だが、「わかったつもり」の先には、ほんとうの出会いは待っていない。

血液型に限らず、あらゆるラベルや分類がもたらすのは、「わかったふり」という関係性の浅さであり、それは、互いを本当に理解し、変化し合う可能性を、根本から奪ってしまう。


単純な物語に逃げ込んだとき、私たちは、相手を見るふりをして、実は自分の頭の中にある「イメージ」とだけ向き合っているに過ぎない。

それは、他者との関係ではなく、自分の安心感を守るための、閉ざされた独り芝居だ。

──そして、その独り芝居は、たとえば結婚してから、いずれ深い孤独をもたらす。


他者と出会うとは、ただ驚き、戸惑うことではない。それは、自分自身をも変えていく、静かな革命だ。

想像とは違う誰かに出会い、思い通りにいかない関係に向き合い、傷つきながら、それでもなお手を伸ばし続ける。その営みのなかで、私たちは、他者だけではなく、自分自身をも、未知の存在として発見する。


単純な物語は、私たちを守る。だが同時に、私たち自身が生きる可能性をも、静かに奪う。

複雑さを引き受けること。不安を抱えたまま誰かに関わること。それは、愛することの核心であり、成熟することの、唯一の道なのだ。

血液型と性格という「単純な物語」に頼らず、目の前の、まだわからない「あなた」と向き合う勇気を、私たちは、もう一度取り戻さなければならない。


だが、ここで見落としてはならないのは、現代社会に根付く「コスパ至上主義」の空気だ。最近では、「結婚はコスパが悪い」という言葉が若い世代のあいだで交わされるように、人生のあらゆる選択が、効率と損得で測られる傾向が強まっている。


出会いも例外ではない。膨大な情報のなかから短時間で相手を選び取ろうとする社会では、血液型のような「わかりやすいラベル」が、取引を容易にし、選別を合理化する道具になっている。


単純な物語は、不安をなだめるだけでなく、効率よく「コスパの良い関係」を探すための手段として機能してしまうのだ。

血液型と性格で相手を分類し、短時間で「合う・合わない」を判断する。そんなコスパ婚活的な発想が、無意識のうちに、私たちの出会いを支配しつつある。


だが、そもそも婚活とは、条件を整えることではない。非効率で、遠回りで、ときに傷つきながら、それでもなお「あなた」という未知に関わり続けることだ。血液型と性格という単純な物語に頼ることで、本当に大切なこのプロセスを手放してしまっていないだろうか。


「結婚はコスパが悪い」と言われる時代だからこそ、あえて、非効率を引き受ける覚悟が問われている。

だが、人間関係は本来、コストパフォーマンスで測れるものではない。

時間がかかり、誤解し、傷つき、それでもなお育まれるものだ。

非効率だからこそ、そこにしか宿らない豊かさがある。その当たり前を、今一度、取り戻すべきではないだろうか。



第4章|リテラシーの視点──「個」を見る力を鍛えるために

血液型と性格を結びつける言説──それは、一見無邪気な「話のネタ」のように装いながら、結果的には陰謀論に近い性質を帯びている。

疑うべきところで疑わず、疑う力そのものを手放してしまうこと──若者だけならいざ知らず、結婚支援サイトの企業人も例外ではない。


この恐るべき婚活リテラシーのなさ、そこにこそ、問題の本質がある。

本来、知性とは、「信じたいものを疑う勇気」にこそ宿るものだ。どれほど耳障りがよくても、どれほど安心を与えてくれても、一度立ち止まり、本当にそれが正しいのかを自ら問い直すこと。それが、成熟した個人の責任であり、リテラシーの根幹である。


リテラシー(literacy)という言葉は、もともと「読み書き能力」を意味していた。しかし現代では、単なる情報受信力ではなく、「情報を批判的に読み解き、取捨選択する力」として拡張されている。

メディア・リテラシー、情報リテラシーといった言葉に見られるように、「鵜呑みにしない力」「自分の頭で考える力」が社会において強く求められるようになった。


なぜか?それは、情報量が爆発的に増えたからである。膨大な言説が飛び交う現代社会では、誰もが簡単に誤情報に巻き込まれ、無自覚にフェイクを拡散する危険に晒されている。


だからこそ、リテラシーは生存戦略になった。特に、SNS全盛の時代、フェイクニュースが日常的に流通する現代社会においては、リテラシーは単なる知的素養ではなく、自己防衛・企業防衛のために不可欠な技能となっている。

これから先、AIによる情報生成が加速し、虚実の区別がさらに難しくなる時代においては、ますますリテラシーの重要性が高まっていくことは間違いない。


血液型と性格を結びつける言説もまた、その「甘い物語」の一つだ。

わかりやすく、安心できるからこそ、疑うべきだ。その背後には、私たちの「わかったつもり」を刺激し、思考停止へと誘う深い罠が潜んでいる。


この血液型性格診断や、流行りの「16personalities」(16性格タイプ)で相手を分類し、短時間で「合う・合わない」を判断しようとする傾向──私はこれを、「テンプレ自己診断文化」と呼んでいる──は、コスパ婚活という現象にも通じる。


だが、婚活とは、本来、条件を整えることではなく、相手という未知とともに、揺らぎながら関係を育むプロセスだ。

リテラシーとは、「個」を見る力であり、「未知」を受け入れる訓練でもある。


誰かを血液型という記号で裁くのではなく、その人自身の矛盾や揺らぎに耳を澄ませること。それは、相手を型にはめることなく、相手の変化や葛藤をまるごと引き受ける覚悟を持つことに他ならない。


わかりやすさを求めず、複雑さに耐えること──それこそが、本当の意味で「出会う」ために必要な、唯一の知性であり、信頼と愛を育むための唯一の道なのだ。

関係性の成熟とは、互いに未知であることを許し、相手を固定化せず、変化し続ける存在として関わり続けることに他ならない。

血液型性格診断いう物語に頼ることは、相手を「理解済み」とみなすことであり、そこに関係の成長の余地はない。


だが、「わからなさ」を引き受け、矛盾や揺らぎに耐えながら対話を続けるとき、初めて私たちは、単なるラベルを超えて、「人間」として出会い直すことができる。リテラシーとは、「見たいもの」ではなく、「そこにあるもの」を受け止める力である。

そしてそれは、出会いを、取引ではなく、共生・共創へと変えるために、どうしても必要な力なのだ。

終章|「見たいもの」ではなく「そこにあるもの」を見る婚活へ

私たちは、ついウケの良い「見たいもの」ばかりを見てしまう。安心・安全を保証する理想の相手像、「16personalities」のようなわかりやすい性格分類、最適化された幸福のシナリオ──すべてが他者を、そして自分自身をも、静かに歪めていく。


血液型と性格を結びつける物語は、そんな「見たいもの」に手軽な形を与える。不安に揺れる心に答えを与え、「わかったつもり」にさせてくれる。

──だが、その「わかったつもり」の先に、本当の出会いはない。


そこにあるのは、ラベルを貼られた記号化された他者であり、生きた「あなた」ではない。本当に誰かと出会うとは、「見たいもの」を捨て、「そこにあるもの」を受け止めることだ。


たとえば、沈黙が続いた初回デートの空気。うまく話せないこと、予想外の気まずさ、噛み合わない会話。そうした“違和感”や“不器用さ”の中にこそ、相手の生のリアルが隠れている。


それを無視して理想とすり合わせるのではなく、ただ「そこにいる」他者の気配や感情に、沈黙ごと付き合うこと。それが、関係性の始まりだ。

人は矛盾に満ちている。


現実は常に期待を裏切る。他者は固定された属性ではなく、出会うたびに揺れ、変わり続ける。その揺らぎと不確かさを引き受けることこそが、愛の始まりであり、関係を育むということだ。


婚活とは、「まだ知らない誰か」と、「まだ知らない未来」を、時間をかけてともに育てていく決意である。血液型性格診断という単純な物語に頼るのをやめたとき、私たちは、スペックではない「あなた」と出会うことができる。

効率や計算を超え、手間と葛藤と愛おしさに満ちた、真実の「関係」を始めることができる。


わかりやすさを捨てよ。効率を捨てよ。そして、そこにいる「あなた」を、そのまま、受けとめよ。


かつてスティーブ・ジョブズはこう語った。
「他人の人生を生きてはいけない。毎朝鏡に向かって“もし今日が人生最後の日だとしたら、私は今日やろうとしていることを本当にやりたいだろうか”と自問せよ」。

──この問いは、婚活という選択にも深く突き刺さる。


「血液型と性格」もまた、誰かの人生にすぎない。条件に合う誰かを選ぶことより、自分の人生にふさわしい“他者”と出会えるかどうか。用意されたマニュアルや脚本に従うことより、関係のなかで“自分を生き直す”ことができるかどうか。

婚活とは、自分が誰であるかを、他者との関係を通して問われる場でもあるのだ。それが、愛を知るということだ。


そして、たったひとりの「あなた」とともに、たったひとつの現実を、手探りで育てていくということだ。その覚悟なくして、生きる実感など得られはしないのだから。

この世界は、単純な答えで満たされてなどいない。だからこそ、そこには、出会う価値のある「あなた」がいる。


そしてもう一つ──それでもなお血液型と性格を結びつける物語を信じ続けることは、「トンデモ科学」情報を広め、誤情報の連鎖を助長するという社会的責任を、私たち自身に課しているということも、忘れてはならない

補遺|科学は、血液型と性格の関係をどう見ているか?

現在、A型、B型、O型、AB型の“性格の傾向”として語られている多くの特徴──
「A型は几帳面」「B型はマイペース」「O型は社交的」「AB型は二重性がある」など──それらは占い的な娯楽要素として広く親しまれてきた。


だが、心理学や行動科学の立場からは、こうした言説を裏付ける確かなデータは存在しない。


■科学的な研究は何を示しているか?

1990年代以降も、日本・アメリカ・韓国などで実施された複数の大規模研究やメタ分析において、 血液型と性格傾向との間に統計的に有意な相関は認められないとする結論が繰り返し示されてきた。


代表的な調査として、1991年に松井豊氏が実施した調査がある。この研究は立川短期大学紀要に発表されたもので、約3,000人のサンプルを対象に血液型と性格の関係を統計的に検証したが、明確な相関は認められなかった。
また、松井氏の調査は複数年にわたって行われ、累計で約12,000人のデータが収集されている。


さらに2014年には、縄田健悟氏らによる研究が、日本およびアメリカの大規模社会調査データを用いて実施され、血液型と性格に有意な関連はないことが改めて示された。


これらの調査結果は、血液型と性格の関連性についての科学的な検討の一例として、​多くの研究者や批評家によって引用されている。

しかし、​その後の研究やメタ分析においても、​血液型と性格の間に有意な関連性は認められていない。​
そのため、血液型性格診断は科学的根拠に乏しいとされている。


■なぜ信じてしまうのか?

血液型性格診断が信じられやすい理由には、いくつかの心理的な傾向がある:


  • 確証バイアス:自分の期待に合う情報ばかりを覚えてしまう。
  • 自己成就予言:診断通りにふるまうことで、ますます“当たっているように見える”。
  • 社会的同調圧力:「みんなが言っているから」「話のきっかけになるから」という空気。

つまり──信じられているから“当たる”のではなく、“信じたい構造”のなかで自ら当てはめに行っている、というのが実情に近い。


■ それでもなぜ、信じ続けるのか?

「血液型で性格がわかる」という物語は、偶然の出会いや他者の複雑さを“わかりやすく処理したい”という欲望をなだめてくれる。
そしてもう一つ──血液型による自己理解は、”不安定な自己を「仮固定」するためのラベル装置”としても働いている。


だからこそ、特に若い世代はこの神話を“信じる”というより、“拠り所として使っている”というほうが正確かもしれない。


■結論として

血液型と性格の関連は、科学的には否定されている。
だが、それでも信じたいと思うとき──そこにあるのは「自分を知りたい」「誰かを理解したい」という人間らしい切実さである。


だからこそ私たちは、ラベルではなく、関係の中でしか見えてこない個性に目を向ける必要がある。


説明ではなく、応答へ。
分類ではなく、対話へ。
出会いとは、本来そういう“面倒くさいプロセス”の中でしか、本物にならないのだから。


■出典・参考文献

松井豊(1991)『血液型と性格の関係に関する実証的研究』立川短期大学紀要。
縄田健悟・加藤隆宏(2014)『血液型と性格の関係に関する日米比較研究』日本心理学会発表論文。
その他:国内外の大規模メタ分析(1990年代〜2020年代)による一貫した報告。



(婚活メンター・ひろ)




「血液型、何型ですか?」──その一言から始まる会話は軽やかで親しみやすいもの。

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この記事では、血液型と性格の関連性がいかに科学的根拠に乏しいかを検証しました。


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